旧浦賀道4_瀬ケ崎-逸見
◆旧浦賀道_瀬ケ崎-逸見
2020年9月4日(金)晴れ
5月11日に能見台から瀬ケ崎までの区間を歩いたが、それに続いて、瀬ケ崎から逸見(へみ)に至るまでの区間を本日歩いた。
今回のルートの中には、経路が不明確な場所が2か所あり、ちょっと途中で迷った。
(1)瀬ケ崎の交差点【9:31】
前回の終了地点である瀬ケ崎の交差点を9:31に出発。ちなみにここは旧道が国道16号線と合流する地点。
(2)横須賀市との市境【9:35】
数分歩くと横須賀市に入る。
(3)傍示堂(ほうじどう)の石塔群【9:36】
昔、このあたりは天神山脈が東西に連なった険しい場所で、その尾根道の峠を南北に貫くのが「浦賀道」だった。
また、傍示(榜示)とは杭や石などで境界を示すことで、ここは、浦郷村(現在の追浜)と六浦荘村(金沢区)の村境いであり、さらに相模・武蔵の国境でもあった。
このため、隣村から悪人や病気が入らぬよう、道祖神としての村の守り神として、さらに旅人の安全祈願などで、古くから五輪塔・地蔵・庚申塔が祀られていたそうだ。
ちなみに、ここの五輪塔は鎌倉・室町時代のもので、四面に梵字が彫られているかなり貴重なものだそうだ。
(4)雷神社(いかづちじんじゃ)【9:39】
正式には「いかづちじんじゃ」とされているが、「かみなりじんじゃ」の呼び方が地元では普通とのこと。創建は承平元年(931)というからかなり古い。
祭られているのは、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)で、その名の通り雷神。雷の猛威に対する畏れや、稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する信仰から生まれた、農耕民族日本人の神。
ネット情報によると、社名をもじった独自のカクテル「雷ジンジャー」が、2013年より周辺の飲食店で提供されているらしい。(未確認です。)
(5)雷神社旧跡【9:46】
雷神社の旧地で、落雷を受けたという神木のビャクシンが立ち枯れたまま残っている場所。
街道の風景。静かな住宅街。
(6)良心寺とその門の傍の庚申塔【9:54】
庚申塔には、寛文12年(1672年)に作られたと彫られてある。
(7)首斬観音(くびきりかんのん)【9:57】
天保年間(1830年~1843年)のころ、全国的に干ばつや冷害が続いて飢饉が発生し、浦郷村(追浜)でも犯罪が横行。捕らえられた犯罪者はこの近くの浦郷陣屋で裁かれて処刑されたそうだ。(ちなみに、天保8年(1837年)には、天保の飢饉で苦しむ人々を救おうと、大塩平八郎の乱が起きている。)
大正末期に現在の国道16号線の工事の際、首上の頭がい骨だけが十数個発見され、地元住民が供養碑として石塔を建てて供養した。
下写真中央の首斬観音と彫られた石塔は昭和三年に建立されたものだが、左右の石造の銘文には天時天保の造立とあり、江戸時代からあったものらしい。
街道風景。
線路沿いはかなり細い道になる。
(8)登り口【10:07】
旧浦賀道は今の浦郷隧道(トンネル)の上を通っているので、その道を探して隧道の手前にあった下記の写真の階段を上ってみたのだが、すぐに行き止まり。あきらめて下に降りて、隧道を通ることにした。
(9)街道風景【10:19】
(10)街道風景【10:29】
京急の線路の脇を進むと住宅街に入り、そこをさらに進んでいくと、細い階段の道になる。
(11)池の谷戸公園【10:43】
前項のような坂道を登りきると、閑静な住宅街に出る。この地域一帯を池の谷戸という。
ちなみに、谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地、萢(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られるとのこと。
池の谷戸は、大正時代から奥にテニスコートがあったり、当時の先端をいく職業の写真館や食料・雑貨・米酒・塩・味噌、郵便局を代行して赤ポストを置き、切手・ハガキも販売した商店などもあり、田浦でも進んだ地域であったようだ。
その中にあったかなり大きな公園が「池の谷戸公園」。ここで少し休憩。
池の谷戸は宅地開発が進んで整地されているため、旧街道が残っていない。
とりあえず、田浦山盛福寺を目指して、道をジグザグに進む。
事前に調べたところでは、田浦山盛福寺の脇から、田浦山隧道の出口に出る道があるはずだが、それがなかなか見つけられなかった。
そのうちに、次の写真の「三浦アルプス登山口」が出てきたので、この登山道の途中から本来の街道に出られるかもしれないと思って、ここを登ったのだが・・結論からいうと、この道はまったく旧浦賀道とは無関係だった。大幅な回り道をしてしまった。
(通った尾根道は、かなり背の高い雑草が生い茂っていて、けっこう進むのが大変だっただけに、非常に残念。)
(12)三浦アルプス登山口表示【10:49】
階段はここに書かれてあるように、全部で234段もあった。
途中の見晴らしは、かなりよかっただけに・・・。
気を取り直して下山して登山口まで戻り、改めて周囲を探すと、盛福寺の駐車場の奥に、道路からは見づらいが、何やら道があるのに気付いた。私道のようだ。
(13)私道入口【11:11】
この道を進むと、すぐに田浦隧道の入口の横に出られた。
(14)田浦隧道入口【11:14】
(15)盛福寺山門【11:16】
(16)盛福寺石仏群【11:17】
六地蔵と石仏が46体もならび、お花やお菓子がたえることなく供えられている。その横には、貞享4年(1687)の庚申供養塔がある。
(17)旧海軍の標柱【11:20】
盛福寺の前を通る道は、横須賀水道道(すいどうみち)である。これは、旧海軍が1918年に敷設したもので、中津川の水を取水して逸見(へみ)浄水場まで流す給水配管敷設道路。軍艦の製造が盛んになると、走水からの水道だけでは不足したために作られた。
それを示す標柱が道沿いにいくつも見られる。
(18)馬頭観音石仏群【11:27】
(19)御嶽稲荷神社【11:32】
稲荷神社は日本各地に存在しており、分霊された神社が全国に約3万社存在するそうで、これは、次点である八幡神社の1万5000社を大きく上回る。
ということで、特に特別ではないのだが、「御嶽」と付いているのはなぜなのか、ちょっと気になったので後日調べたが、今のところ不明。
(20)庚申塔石仏群【11:32】
(21)長善寺【11:38】
(22)街道風景【11:43】
(23)街道風景【11:47】
(24)十三峠道標【11:47】
(25)開拓記念碑【12:06】
十三峠開拓農業協同組合により昭和32年に建てられた。戦後の食糧不足の対策として、自作農創設特別措置事業法が公布され、農地開拓の一環として県の指導で開拓事業が行われた時の記念碑。こんな山奥まで農地開拓が行われたのは初耳だった。
(26)街道風景【12:12】
(27)塚山公園案内図【12:13】
駐車場の奥にあったコンテナーのような防災収納庫の壁に掲げられていた。
この上が「十三峠公園」のはずだが、街道沿いには何の標識もない。
ここ十三峠は、浦賀道で最大の難所と言われていたそうだ。
確かに浦賀道の今まで通ってきた山道より標高は一段高い印象はある。今は車も通れる舗装路だが、昔はもっと狭い山道だったに違いない。
十三峠の名の由来には、保土ヶ谷より13番目の峠という説や、峠に祀られた十三仏(どこにある?)にちなむという説などがあるそうだが、仏教での十三回忌や十三詣りという言葉からは何らかの宗教的な背景か意図があったようにも思えるのだが?
(28)道標【12:15】
(29)道標【12:18】
(30)三浦按針夫妻墓【12:21】
(31)塚山公園【12:24】
(32)道標【12:33】
(33)一般道への分岐点【12:43】
写真の階段を下りてきた。
(34)西逸見吉倉隧道【12:44】
横須賀市は市内5カ所に防災トンネルを整備している。土砂崩れなどの災害時に谷戸地域の孤立を防ぐため。その一つで、1985年に完成。
川沿いの街道風景
(35)鹿島神社【12:52】
(36)逸見駅への分岐点【12:53】
今回は予定通りここまでで終了とした。休憩を含めた歩行時間は、3時間42分だった。
但し、途中で間違えて、三浦アルプス登山口からの山道を歩き回った時間が21分あるので、それを引くと、実質3時間21分かかったことになる。
途中で見つけたマンホールの蓋の画像を以下に掲載する。
横須賀市
市の木・オオシマザクラ(葉も)に囲まれて中央に市章。
横須賀市
前項と同じオオシマザクラと中央に市章だが、デザインが異なる。
横須賀市
黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター「アクアン」と赤いはしご車。
「アクアン」は、横須賀水道90周年記念事業の一環として作成され、横須賀の水を守る妖精をイメージしているという。
全体のメインメニューは
<https://sites.google.com/view/slowly-walker>
以上
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