旧中山道5_吹上ー深谷

 ◆旧中山道_吹上-深谷

2019年11月8日(金)晴れ

旧中山道の歩き旅5日目。

吹上-熊谷宿-深谷宿と歩いた。

休憩を含めた歩行時間は、合計5時間47分だった。

前回の終了地点、吹上駅前交差点をスタート。

(1) 吹上駅前交差点【9:18】

(2)道標【9:21】

(3)いぼ地蔵尊入口標石【9:22】

(4)吹上神社【9:24】

(5)中山道 間の宿 碑【9:26】

(6)跨線橋(こせんきょう)【9:29】

(7)道標【9:37】


(8) 榎戸堰組合用水樋管の橋梁&元荒川起点標石【9:39】

榎戸堰組合用水樋管は、榎戸堰から上流50mの元荒川右岸に設けられ、農業用水を送水しているもの。まだ現役の施設。

本施設は腐朽した木造樋管を煉瓦造りで改良したもので、明治34年(1901)に建設。

左側の石碑が元荒川起点碑。明治期の起点で現在の起点よりもかなり下流。

(9)権八延命地蔵【9:41】


案内板に記された物語と類似の言い伝えは他地域にもあるので、誰かが何らかの理由で創作したものだろう、という説もある。

一般的に、昔の言い伝えは、何らかの意図や願望を込めた創作や脚色が多い傾向にあるらしいので、そういう面での見方も必要か。

次写真は、権八延命地蔵のとなりにあった二十二夜塔。

(10)堤防沿いの街道【9:45】

(11)街道から見た元荒川【9:45】

堤防の左側の今の荒川とは比べ物にならないくらい小さい。

(12)八幡神社【9:49】

大きさ的には屋敷神の祠程度だった。

(13)馬頭観世音菩薩【9:52】

(14)荒川堤防上の街道【9:56】

堤防に沿った下の道が概ね旧街道だが、ところどころ堤防の上を通ることもあった。



(15)決潰の碑【10:00】

昭和229月のカスリーン台風による洪水のため、河口から71km付近のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊した。(石碑の文字は「決壊」ではなく「決潰」)

旧街道はこの碑の裏側を通る。この付近は熊谷市、行田市、吹上町の境界とのこと。

(16)久下の一里塚跡【10:05】

街道沿いではなく、少し離れた土手下のマンション前。

鳥居もあったので、街道からそこまで行く道があるだろうと周囲を探したが、残念ながらよく分からなかった。次の写真の赤矢印部分。

次の写真は街道からの望遠撮影。


(17)馬頭観音【10:07】

(18)街道風景【10:20】

堤防から離れて内陸部に向かう。

(19) 久下(くげ)堤碑【10:21】

明治45(1912)に建立。「修堤記録輪型の碑」と呼ばれている。

後日調べたら、碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されているとのこと。

この付近は、江戸時代初頭から存在する堤防。(近年になって大改修されている。)

(20)久下新川村解説板【10:23】

久下公民館の前にあった。

(21)久下(くげ)神社【10:25】


(22)成田山跡【10:37】

不動跡ということで、ネットでは次の写真のように対の石柱が示されていたが、実際に来てみたら、その次の写真のように新しい民家が既に立っていた。

高い塀から何とか石柱の上方のみが確認できた。

・ネット上の写真。2015年頃と思われる。

・今回撮影した現状。

(23)道標【10:38】

(24)道標【10:38】



(25)熊谷堤碑&賽ノ神道標【10:39】


(26)権八地蔵【10:39】

ここから再び堤防の上を進むが、すぐに下に下りる。

(27)久下の渡し冠水橋跡碑【10:41】

(28)みかりや跡【10:43】

みかりやとは御狩屋と書き、忍藩の殿様が鷹狩の際に休息した場所だそうだ。

(29)元荒川起点【10:56】

(30)地蔵尊【11:00】

(31)八丁の一里塚跡【11:04】


一里塚跡の奥にあった祠。庚申塔だと思ったのだが?

(32)銀座一丁目の交差点【11:39】

なんとなく微笑ましい・・といったら失礼か。

ワールドカップのタペストリー【11:43】

熊谷ラグビー場で、9月24日から10月9日にかけて3試合が行われた。

街道風景【11:46】




(33)札の辻跡(高札場跡)【11:50】


(34)瓦屋根のバス停【11:53】

(35)本陣跡【11:54】


(36)道標【11:56】

(37)熊谷寺(ゆうこくじ)【11:58】

板東一の剛の者と称された熊谷次郎直実公が、出家した後に念仏を称え続けた草庵が始まりと伝えられている寺。新渡戸稲造(にとべいなぞう)が書いた「武士道」には、「『仁』を全うした武士」として、熊谷次郎直実が紹介されているとのこと。

なお、一般公開されていないので中に入れない。

(38)道標【12:00】

(39)道標【12:00】

(40)松厳寺【12:04】

(41)新島の一里塚【12:40】


案内板(平成12年作成)では、樹齢300年以上のけやきの大木が残っていると書かれてあるが、見ての通り、既に伐採されていた。

ネットで調べたら、昔の写真があったので次に示す。さすがにりっぱで、これを実際に見てみたかった。

(42) 大雷神社社標【12:42】

(43)忍領石標【12:43】




(44)街道風景【13:01】

(45)庚申塔【13:02】

(46)地蔵堂&庚申塔【13:17】



(47)明治天皇御小休所跡碑【13:43】

(48)地蔵尊【13:44】

(49)鬼林稲荷神社【13:54】

(50)街道風景【14:00】


(51)熊野大神社鳥居【14:15】

(52)深谷並木【14:20】

(53) 木曽御嶽山遥拝所(御嶽神社)【14:24】


(54)愛宕神社【14:26】

(55) 史跡上杉氏歴代墓【14:32】

(56) 日吉大神荒神社(深谷市国済寺)【14:34】



(57)庁鼻和館 北西隅外廓土塁(こばなわやかた ほくせいすみ がいかくどるい)

【14:39】



(58)見返りの松【14:45】

かつてこの周辺には、2.5㎞にわたり松や杉の並木が続き、江戸末期には約450本あったとか。


(59)旧深谷宿常夜灯【14:50】

(60)旧日本煉瓦(れんが)製造 上敷免(じょうしきめん)工場 専用鉄道線跡【14:50】

日本煉瓦製造株式会社は明治21(1888)年に操業を開始。当地で製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用された。

しかし、時代とともに煉瓦需要が減少したことや、安価な外国産煉瓦の市場拡大を原因として、平成18(2006)年 約120年の歴史に幕を下ろした。



(61)大谷邸【14:53】

大谷家は江戸時代中期から続く深谷宿の有力商家。

昭和初期の大恐慌の際には、当時深谷町長だった当主の大谷藤豊が困窮する人々に手間賃や食糧を与えるため、自邸の建築事業を行った。

その「お助け普請」の典型例であるこの建物は、連日100人以上の職人を1年半も雇用して建てられたそうで、職人たちは誰もが競って自分の腕前を最大限に生かし、隅々まで高度で精緻な技量が発揮されたとのこと。

平成16年には、国の登録有形文化財に指定。


(62)だいまさ【14:54】

江戸時代後期創業の老舗お米屋さん。


(63)行人橋【14:57】

(64)煉瓦卯建の旧商家【15:03】


(65)深谷市仲町交差点【15:05】

今回はここまでとした。

深谷市は「渋沢栄一」、「煉瓦」、「深谷ねぎ」が観光の目玉ということで、以下は深谷駅で撮ったもの。


深谷市のゆるきゃら「ふっかちゃん」は、実は初めて見たのだが、一目でツノ(?)が「深谷ねぎ」だというのは分かった。

東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで、「ミニ東京駅」とも呼ばれる深谷駅自身は、外壁工事のため周囲が仮設足場で囲まれていて、残念ながらよく見えなかった。


今回出会ったマンホールの蓋を以下に示す。

熊谷市

市の花「サクラ」。「熊谷花火大会」。そして魚は、熊谷市の元荒川上流にしか棲息していないという「ムサシトミヨ」。

荒川堤は平成2年に「さくら名所100選」に選ばれている。

荒川左岸北部流域下水道

荒川左岸北部流域下水道は、熊谷市、行田市、鴻巣市、桶川市、北本市で発生する下水が処理の対象。

清流でトンボやザリガニと戯れる子供たちを描いた図柄。

深谷市

市の花「チューリップ」が描かれている。

深谷市

花は市の木「ツバキ」。

中央は旧市票で、カタカナの「フカヤ」を図案化したもの。

深谷市

手足を大きく広げた人間がたくさん描かれている。中央には現在の深谷市の市章。(2014年に制定)

以上

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