旧木下街道1_行徳宿ー法典宿
◆旧木下街道_行徳宿-法典宿
木下(きおろし)街道は、銚子沖で獲れた魚貝類を江戸に運ぶために整備された道。銚子に水揚げされた魚貝類は舟で利根川を遡り、木下河岸で馬に積み替えた。その後陸路で本行徳河岸まで運び、そこで再び舟に乗せ替えて、魚河岸のあった日本橋に運ばれていた。
2025年5月27日(火)曇り
最初の街道歩きとして、南行徳駅から船橋法典駅まで歩いた。
(1)南行徳駅【10:13】
街道風景
「神輿(みこし)のまち行徳」に関して調べてみた結果が以下。
行徳は幕府の天領(直轄地)として江戸湾岸における最大の塩の生産地になっていたが、河岸(船着場)ができると、多くの船や人が出入りするようになり、活気のある港町となった。寺社も次々と創建され、「行徳千軒、寺百軒」といわれるほど寺社の多い寺町となっていたので、腕のよい宮大工や仏師が多く集まった。しかし、明治に入ると社寺の仕事が減ってしまったので、その技術を活かして神輿(みこし)づくりに力を入れるようになったそうだ。
神輿製作は昭和時代にその最盛期を迎え、特に戦後の復興期から高度成長期にかけては空前の神輿製作ブームとなった。明治から昭和にかけて製作された全国の江戸神輿の数は4000基にものぼり、その半数が行徳神輿と言われている。
(2)古道の案内板【10:29】
(3)今井の渡し旧跡【10:32】
江戸川風景
(4)分岐点(起点)【10:35】
街道風景
(5)日栄神社【10:44】
6)分岐点【10:47】
水門
(15)行徳ふれあい伝承館【11:26】
旧浅子神輿店で、建物は国の有形文化財に登録されている。
(17)加藤家住宅【11:35】
有力塩問屋だった加藤家の主屋で、唐破風造りの玄関、銅板葺の庇、模様ガラス戸などが見られる。フランス積みの煉瓦塀とともに明治後期のもので、国登録有形文化財。
(24)行徳橋&行徳可動堰【12:20】
行徳可動堰は江戸川の最下流部に位置し、江戸川水閘門と連携して、平常時はゲートを閉めて首都圏の生活用水に海水が混入しないよう塩分遡上を防止するとともに、洪水時にはゲート操作により堰下流に洪水を安全に放流させる目的で設置した施設。
(28)甲大(かぶとだい)神社【12:49】
全国唯一の社号(神社の称号)とのこと。
創建は永延2年(988年)。将門の乱から僅か50年後に勧請されており、平将門の兜(甲)を祀っているという伝承がある。
(30)不知森神社&八幡の藪知らず【13:36】
(31)永井荷風の部屋【13:40】
市川市役所内に常時展示されている。
(33)大須賀力(おおすか つとむ)野外彫刻作品「回想」【13:48】
大須賀力は1906年東京生まれの彫刻家。2009年市川市にて没。市川市名誉市民となっていて、市川市にいくつかの野外彫刻がある。これはその中の一つで1991年に設置されたもの。
明治期においては陸軍御用達の馬糧商(ばりょうしょう)を営み、大正期になると味噌醸造業に転じた。各建造物はおおむね明治後期のもので、国登録有形文化財。
(38)東山魁夷記念館【14:15】
(40)中山競馬場【14:42】
(41)船橋法典駅【14:53】
JR武蔵野線の駅。中山競馬場の最寄り駅のため、開催日もしくは場外発売日には専用改札口から専用の地下通路を通って競馬場に直接行けるようになっている。
「法典」の由来は、日蓮上人が通った時に法を説いたので「法伝」から由来するなど、様々な説があるそうだ。
本日のここまでの歩行時間は、休憩も含めて4時間40分だった。
今回出会ったマンホールの蓋は以下。
4点すべてが千葉県市川市のもの
市の木「クロマツ」を描いたもの。中央に市章。
塩を運搬するために始まった「行徳船」とその航行の安全を祈願する常夜灯。行徳の名物としても広まったうどんの「笹屋」が描かれている。
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