旧浦賀道3_能見台-瀬ケ崎

 ◆旧浦賀道_能見台-瀬ケ崎

2020年5月11日(月)晴れ

旧浦賀道(うらがみち)は、実は自宅の近くを通っていて、部分的には何度も歩いている区間も多いのだが、特に浦賀道と意識して歩いたことはなかった。今回、改めて全体を通して歩いてみることした。

コロナ禍の中、初日の今日は自宅から徒歩で移動できる範囲の、能見台から瀬ケ崎までの区間を歩いた。

(1)能見堂緑地入口【9:50】

(2)分岐点【9:51】

ここから浦賀道になる。

道は六国峠ハイキングコース(横浜金澤散策コース)の一部となっていて、反対方向(写真左)へ行けば鎌倉まで歩ける。             

(但し昨年(2019年)の台風被害で一部まだ通れない区間もある。)

今はハイキングコースと呼ばれるような山道が、当時のメインの街道だったということで、江戸時代の人々の健脚ぶりが想像できる。




(3)舗装路(手前)への出口【9:59】

途中の数十メートルだけ舗装路になっていて民家の横を通る。それが(3)から(4)の区間。

(4)舗装路(手前)からの再入口【10:00】

この区間はしばらく視界が開ける。空気が澄んでいれば富士山も見られるが、今日は見られなかった。

(5)能見堂緑地【10:02】


(6)能見堂跡【11:04】

下記の案内に記されているように、ここからの眺望がすばらしかったので、金沢八景と呼ばれていたとのこと。(今の金沢八景駅とはずいぶん離れている。)

現在は海岸線からかなり離れた場所なので、初めてこの話を聞くと驚くが、江戸時代までは、このすぐ傍まで海岸線が来ていたということ。案内板にあったその当時の地図を見ると納得する。


享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑。






しばらく行くと下り始める。



(7)石塔群【10:11】

左端の小さな石碑は馬頭観音。その他は不明。

(8)一般道への出口【10:14】

ここに記されている六国峠は、かなり先の鎌倉市にある峠の名前で、天園(てんえん)とも呼ばれていて、昔は休憩所があった。六つの国(武蔵、相模、上総、下総、安房、伊豆)が眺められたことが由来とか。(ちなみに、「天園」を「天国」と読み間違えて、ギョッとする人も・・・・)

しかし、この場所の入口で道案内の表示を出すなら、能見堂跡か金沢自然公園のほうが自然なようにも思うのだが。

(9)庚申塔【10:17】


(10)
君ケ埼稲荷神社【10:24】

道脇の小規模な神社。屋根上の左右に石造のきつねがある。

社の脇には、無縁仏供養塔と不動明王等の石仏がある。

(11)金沢八幡神社【10:33】

金沢文庫の古文書に、700年前の称名寺造営の運ぶ舟が八幡河岸(がし)に陸揚げした、とあることから、この神社も鎌倉時代には存在していたとのこと。

(12)町屋神社【10:36】


(13)庚申塔【10:38】

両脇に狛犬があるものは初めて見た。本来は別の場所にあったものを、後からセットにして設置したようにも思えるのだが・・・

(14)龍華寺【10:39】


(15)洲崎神社【10:41】

(16)憲法草創之處碑【10:45】

かつてこの辺りに料亭東屋(あずまや)があり、ここで伊藤博文を中心に、明治憲法の骨格が練られたとのこと。


(17)「明治憲法起草の地」説明板【10:46】

(18)姫小島水門跡【10:49】

金沢地区の干拓事業をすすめてきた永島家六代目段右衛門が、金沢入江新田開発のため造ったもの。天明5年(1785)に完成。



(19)琵琶島神社【10:54】





社自体は小さい。入口の両脇にシュロの木がある神社は珍しい。


入口にあった福石


全体像が分かりにくいので、Webにあった航空写真を示す。

(20)瀬戸神社【10:56】





(21)
泥牛庵(でいぎゅうあん)【11:02】

寺号の由来は、禅語に登場する「泥牛」という言葉で、泥は煩悩、牛は仏にたとえられ、煩悩にとらわれぬ境地で悟りを得ることを意味するそうだ。

寺を開基したのは、鎌倉末期の執権・北条高時。

(22) 八景一見之地石碑【11:03】

道を挟んで泥牛庵の向かい側にある。

「八景一見之地飛石」と刻彫されている。

右側面には「曻天山 金龍禅院」、左側面には「第十一番 金澤札所 正観世音菩正作 行基」、裏面には「?享和二 壬 戍年孟秋吉烏 當山現住彛津?造?」。

すなわち、享和二年(1802)年に金龍禅院が建立したものとのこと。

ネットに江戸時代の「武昌金澤八景之圖」が出ていたので次に示すが、ここに「八景一見之地」の表示が見られる。(この図は、(19)の琵琶島に掲示されていた説明板にも記載されている。)

 この図には、泥牛庵や琵琶島、(16)に示した東屋も記されている。

またこの図の左上は海で、能見堂跡での案内板の記述にもあったが、今よりもかなり広い範囲が海だったことが分かる。

これを分かりやすく示した図が金沢区のHPにあったので次に示すが、これを見ると、ここまで歩いてきた浦賀道は、実は瀬戸入海に沿っていた道だったことが分かる。

<鎌倉時代>

<現在>

(23)金龍禅院【11:04】

昇天山金龍禅院(しょうてんざん きんりゅうぜんいん)。昇天山の山号は、昔この寺で硯の中から龍が昇天したからと伝えられている。

本堂後ろの丘にあった九覧亭(きゅうらんてい)からの眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として大変な賑わいをみせたとのこと。

創建:永徳年間(138184)




(24)
上行寺東遺跡(じょうぎょうじ ひがし いせき)【11:07】

少し急な階段を上る。


街道歩きからはちょっと異質な場所だった。


遺跡といっても穴があるだけなので、この上にどのような建物があったのか、なかなか想像するのは難しい。

(25)上行寺(じょうぎょうじ)【11:13】

遺構へ上る階段から見える上行寺。


(26)
諏訪之橋【11:23】

下を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)。歌舞伎などの演目の「小栗判官」のヒロイン・照手姫(てるてひめ)が、追手に捕まり川に投げ込まれたことを知った乳母の「侍従」が、それを嘆いてこの川に飛び込んだことから、この名前がついたという。

(27)三艘(さんぞう)橋【11:27】

三艘は昔の地名。唐船が来泊して、称名寺にある一切経、青磁花瓶、香炉、唐猫等を持って来たので、その着岸したところに三艘の地名がついたとも。一説には、その後北条顕時、貞顕のころまで唐船が3度来着したので三艘の地名がついたとも。

(28)庚申塔【11:29】

(29)六浦東交差点【11:36】

本日はここまでとした。

歩行実績は1時間45分だった。


途中で見つけたマンホール蓋を以下に示す。

すべてが金沢八景駅周辺にあったもので、金沢八景の浮世絵が描かれている。




 

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以上

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