旧浦賀道6_大津-一色(葉山)
◆旧浦賀道_大津-一色(葉山)
2020年10月14日(火)曇り
西浦賀道の大津から一色の区間を歩いた。
(1)東浦賀道との分岐点【8:50】
(2)宿守稲荷社(すくもりいなりしゃ)【8:51】
正徳3(1713)年に里人が宮ケ谷戸に勧請して、76坪の境内に社殿を建て敬仰したといわれている。
昭和5(1930)年に京浜急行電鉄(当時は湘南電氣鐵道)が開通すると、鎮座地が軌道敷となり撤去されたため、現在の京急大津駅の脇に移遷され、同社の所管となったとのこと。
(3)大津おりょうさん公園【8:51】
(4)信楽寺(しんぎょうじ)【8:56】
永正(えいしょう)元年(1504年)<室町時代>開山と伝えられる。坂本龍馬の妻:お龍(おりょう)の墓がある。
坂本龍子の墓
2012年6月2日(日)に旧東海道の神奈川宿(横浜)を歩いたが、その時に通った「料亭田中家」の説明書きに、お龍が仲居として勤めていたことが書いてあったことを思い出した。その時に撮った田中家の写真を下記に示す。
お龍は明治7年に勝海舟(又は菅野覚兵衛)の紹介により田中家で仲居として働きはじめる。
月琴(満月のような円形の共鳴胴に短い首を持つ弦楽器で)を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国客に評判だったとのこと。ただ、他の仲居からは浮いていて、頑固で使い辛かったという話もある。
翌明治8年(1875年)、西村松兵衛と再婚し、西村ツルとなり、横須賀で暮らした。西村松兵衛は元は呉服商の若旦那で、京都伏見の寺田屋時代にお龍と知り合いだったとのこと。
江戸時代の一般女性というと、住んでいる地域や家の周囲で淡々と日々の生活をおくっているイメージがあったが、徒歩でしか移動できない時代に一人で全国(土佐-京都-江戸-横浜-横須賀)を歩き回って(放浪して)しぶとく生活していた元気な女性もいたんだ、ということが、なぜか爽快な気分にさせる。
(5)信誠寺(しんじょうじ)【9:05】
蓮如上人が地面に逆さに差した杖から、のちに枝葉が繁茂したと伝えられる「逆さ銀杏」。昔からお乳の出が良くなるとの庶民信仰が伝えられている。(ちなみに、参道脇の幼稚園は「ぎんなん幼稚園」。)
逆さ銀杏の根元に建てられていた蓮如上人の石柱
調べたら「逆さ銀杏」は、都内麻布の善福寺<親鸞上人>、長野県大鹿村<弘法大師>、山梨県の上沢寺<日蓮上人>、などがあった。
杖を地面に突き刺した人物(上記の<>の人物)が、場所によって異なるのが面白い。
(6)大津諏訪神社【9:08】
(7)大津陣屋跡【9:18】
大津中学校の入口脇にあった。
大津陣屋石橋
学校校内(駐車場)なので、勝手に入るわけにいかず、入口から斜めに撮影。
今回撮影した写真では書いてあることがよくわからないので、ネットに掲載されていたものを次に示す。
(8)大津公園【9:24】
大津公園一帯は、明治期に横須賀の小海(現在の米軍基地内)からこの地に移ってきた海軍射的場の跡地。昭和26年に旧軍財産として大蔵省から横須賀市に譲渡され、翌年から大津公園として、市民に開放されたとのこと。
(9)おりょう旧居跡【9:28】
(2020年10月26日の読売新聞夕刊に、当時4か所あったとされるお龍の住居跡が、地元の龍馬ファンの地道な調査で確定したとの記事が出ていた。その記事によると以下の通り。
2か所目:横須賀市深田台
3か所目:横須賀市上町
4か所目:横須賀市米が浜通
今後これらの住まいをつなぐ観光ルートを、町おこしの新たな材料にしたいとのことなので、機会があれば回りたい。)
(10)天神坂説明板【9:31】
(11)石仏群【9:31】
庚申塔が2基、地蔵菩薩が2基、狛犬が2基。
(12)愛染(あいぜん)神社【9:33】
(13)庚申塔【9:43】
(14)妙真寺保存金并神金里共有金碑【9:52】
(15)古道掲示板【10:00】
(16)公郷町の庚申塔群【10:11】
民家の横壁にあり、隣の駐車場からしか見えない。
(17)公郷神社【10:11】
(18)法塔【10:17】
民家の庭先
(19)庭先の石積仏塔【10:23】
ただの石積としか思えないのだが、花が添えられていたので後で調べたら、ネットでは、次項と同じ三浦一族将士の墓とされている情報もあるのだが??・・・。
(20) 三浦一族将士の墓【10:25】
「三浦一族」の始まりは、前九年の合戦で源頼義に従い、その恩賞として1063年三浦の地を与えられ衣笠城を築いたとされる三浦為通(みうらためみち)で、三浦一族は源頼朝の挙兵時にも馳せ参じた。
その後、三浦義村は、相模、河内、などの守護や侍所所司、評定衆を歴任し、娘を執権北条義時の嫡子泰時に嫁がせて外戚にもなり、義時の亡き後は、幕府の意向を左右するような政治力を持つ存在となったそうだ。
「三浦一族」というのは、激動の歴史の中を血気盛んに駆け抜けた、存在感のある名脇役だったことを改めて知った。
見ての通り、エノコログサが沢山茂っていて中はよく見えない。平家物語の「諸行無常」というのをちょっと感じてしまう。
瘡守稲荷自体は、ここから南西900mほどの平作五丁目にあるが、なぜここに石碑があるかは調べたが不明。
当時は命取りとなった疱瘡(ほうそう)=天然痘 に対する病魔退散、病気回復祈願から、瘡守稲荷は創建されたようで、全国各地にあるそうだ。
(22)庚申塔【10:38】
街道風景
(23)道標【11:12】
(24)庚申塔【11:15】
(25)地蔵尊【11:16】
(26)街道風景【11:17】
(27)高祖坂の庚申塔【11:22】
(28)馬頭観音道標【11:26】
馬頭観音の台座に「右浦賀 左金沢」とある。
文政5年(1822)に建立されたが、高速道路の建設により昭和59年(1984)に現在地に移されたそうだ。
(29)石塔・庚申塔【11:30】
(30)街道風景【11:34】
車の多い県道27号線を少し歩いた後、交番の向かい側から細い道に入る。それが次の写真。民家の庭先を通る本当に細い路地でちょっと戸惑った。
(31)六字名号(ろくじみょうごう)塔【11:43】
「六字名号」とは「南無阿弥陀仏」のこと。それが正面に刻まれた石塔のことで、延宝6年(1678)造立。
(32)寺前の庚申塔【11:53】
(33)石造五輪塔【11:57】
鎌倉時代初期に製作された墓塔。鎌倉時代前期の武将猪俣小平六範綱と岡部六弥大忠純両将の墓と伝えられているが、それを示す直接の資料はないとのこと。
(34)日露戦役記念碑【11:59】
日露戦役における従軍者15名の顕彰碑で明治39年建立
(35) 栗坪の庚申塔【12:00】
周囲の雑草が酷くて全体像が良く分からなかったが、後日調べたら、元禄年間の造立で、庚申塔、馬頭観音、地蔵尊、合わせて6体。
(36) 栗坪の六地蔵【12:01】
(37)県道への出口【12:11】
湘南国際村入口交差点へ出る。
(38)新善光寺【12:27】
(39)地蔵仏【12:34】
そんなに古いものではないようだが不明。
(40)吾妻神社(滝の坂不動)【12:39】
(41)一色住宅バス停【12:50】
今回は予定通りここで終了。
休憩を含めた歩行時間は、ちょうど4時間だった。
本日出会った横須賀市のマンホール。
市の花ハマユウと中央に市章。
以上
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