旧京街道2_枚方-伏見
◆旧東海道_枚方-伏見
2019年7月10日(水)曇り時々晴れ
大阪の高麗橋から京都山科追分までの京街道を三日間掛けて歩いた。
今日は2日目で、枚方宿から伏見宿まで歩いた。
前日の終了地点の枚方市駅前交差点を7:47に出発。
(1)宗左の辻の道標【7:47】
京街道と磐船(いわふね)街道との分岐点。
磐船(いわふね)街道とは、枚方と奈良県生駒市を結ぶ街道で、途中、交野市磐船を通り、大和とを結ぶ重要な道の一つだった。
当時、角屋宗佐と言う油商人の屋敷がこの辻に在ったことから「宗佐の辻」と呼ばれていた。とのこと。
ネット上の記事には、すぐ近くにあった次の道標が「宗左の辻」の道標だと表示されている。これが分かりにくいので、前掲のものを改めて新設したか??
(2)枚方橋跡【7:49】
(3)東見附【7:54】
(4)鵲(かささぎ)橋【7:56】
前々項の枚方橋の説明にある、昔の「枚方ノ橋」。
(5)延命地蔵【7:59】
しばらく府道13号線(京都守口)線を進む。
府道の右側を京阪電鉄が走っている。【8:05】
(6)清傳寺【8:22】
江戸時代から寺小屋として子供たちの教育に力を入れてきたため、明治の学制制定をうけ、1875年(明治8年)から1877年(明治10年)この地区の小学校として開校。これが現在の殿山第1小学校へとつながっている。とのこと。
牧野駅前を過ぎてから、しばらく線路沿いの細い道を進む。【8:40】
(7)道標&お地蔵さん【8:48】
街道から見た樟葉駅【9:10】
(8)樟葉駅前で休憩。【9:16】
その後、街道歩きから一旦離れてバスに乗った。【9:47】
(9)継体天皇 樟葉宮跡(くずはのみや)伝承地【10:05】
(10)交野天神社(かたのてんじんしゃ)【10:10】
「かたのあまつかみのやしろ」とも読まれる。
桓武天皇が延暦6年(787年)、交野に父光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けたとあり、ここがその地とされている。
その後、樟葉駅にバスで戻り、昼食。
<2021/01/15追記>
馬部隆弘氏の著書「椿井文書(つばいもんじょ)日本最大級の偽文書」を読んでいたら、最終章(219ページ)に次の記載があった。
「河内国交野郡樟葉村の交野天神社は、継体天皇樟葉宮跡伝承地として大阪府指定史跡となっているが、この「伝承」は明治10年前後に樟葉村の今中五郎が創作したものである。」唖然とした。これが正しいなら、わざわざ寄り道して見に行った「大阪府指定史跡」は、まったくの「偽史」そのものだということ。現地に立てられていたりっぱな説明板が空しい。
この著書は椿井文書に関してのものだが、椿井文書は例外的なものではなく近世には偽文書は無数に存在するとのこと。
これは、偽文書の存在に関して多くの歴史家が無警戒、無頓着であり、また、行政は「町おこし」のためには、対象の伝承の真偽に関しては無関心であることがあげられる。
本の中の記載だが、ある事例に対して不適格な記述の書き換えを要望したところ、市の担当者からは「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」と明言されたとのこと。
こうしたトンデモない認識が行政側にあることに「お役所仕事」の非常に不誠実な実態を示されたようで、大きな失望を感じる。
(11)駅裏の細い道を進む。途中にあった道標【11:09】
壊れた道標は初めてみたが、表面だけが石材で、中心部はコンクリートなんだ、という意外な発見があった。
(12)久親恩寺(くしおんじ)【11:23】
延宝年間 (1673~1681)創建の禅寺で、江戸時代、長州藩主通行の際の重要な休憩所にあてられていたとのこと。鳥羽・伏見戦争で全焼。
(13)樟葉台場跡【11:27】
橋本駅の裏に差し掛かると、旧街道らしい道が少し続く。【11:48】
実はここはかつて日本屈指の遊郭街だったそうで、井原西鶴の代表作「好色一代男」の舞台ともなった場所。ただ、鳥羽・伏見の戦いで大半が焼失してしまったらしい。
(14)渡し場跡石碑【11:50】
ここは、京都の裏鬼門を守護する岩清水八幡宮のある男山丘陵の西麓であり、かつ淀川の左岸にも位置するので、1962年(昭和37年)まで対岸の山崎との間に渡し船が運行されていたとのこと。
(15)道標【11:56】
(16)常夜灯【11:59】
堤防沿いの狭い道を進む【12:02】
橋の前まで来て、振り返って見た石清水八幡宮【12:17】
思っていた以上に小さくしか見えない。
(17)木津川御幸橋【12:18】
(18)淀川三川合流域さくらであい館【12:23】
「淀川三川合流域」は、桂川、宇治川、木津川という三大河川が合流して淀川になる地点。それで「であい」館。
道の駅的な感じだが店舗はない。会議室などもあってイベントも行われるとのこと。当日は、私を含めて数人だけが小休止をしていた。
その後、宇治川を越え、桂川の手前で右折して進む。
(19)美豆城跡【12:58】
「みまめ」ではなく「みず」と読む。
(20)凉森神社(すずのもりじんじゃ)【12:59】
(21)道標【13:10】
「淀の道」と読める。
(22)文相寺【13:15】
街並み【13:16】
(23)京都競馬場の横を通る【13:38】
(24)淀小橋増築碑【13:40】
明治11年に建てられたもの
(25)唐人雁木旧趾&納所(のうそ)説明板【13:47】
「唐人」(からびと、又はとうじん)とは中国、または朝鮮の人。ここでは、朝鮮王から祝賀のため派遣された朝鮮通信使を指す。
「雁木」(がんぎ)とは、階段かそれに似た形状を持つ構造物のことだが、ここでは船着場の階段の意。
通信使が大坂から川船で淀川をのぼった際の上陸地点がすなわち唐人雁木。
(26)淀小橋旧趾【13:50】
しばらく行くと、京阪電鉄に沿った道となる。【14:01】
線路の奥には京都競馬場。振り返って撮った写真。
(27)戊辰役東軍戦死者埋骨地【14:02】
後日調べると、脇の碑には「慶応四年戊辰正月 伏見鳥羽の戦に敗れここ淀堤千両松に布陣し薩摩 長州の西軍と激戦を交し、悲命に斃れた会津 桑名の藩士及び新選組並びに京都所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ」と書かれてあるとのこと。
踏切を超えると宇治川の堤防上の道になる。【14:16】
なぜか川側にはフェンスが。それなりに頻繁に車が通るので、フェンスで道脇に逃げられないということで、歩くのもいささか怖い。
フェンスがなくなってしばらく歩くと、道は4車線の国道1号線(京阪国道)を横切ることになる。(地図(28)の場所)
しかし、その交差点には横断歩道も信号もない。
車の往来は途切れないし、いささか困ってしまった。ふと脇を見ると、斜め下に下りて行く、草が踏みつけられて出来た獣道のような細い道が見えたので、そこを通って、1号線の通る橋の下をくぐった。
写真は振り返って撮ったもの。【14:26】
京街道と言っても、ここを旅行者が通ることは想定外なのでしょうね。
しばらく進むと細い川に突き当たる。そこに掛けられた仮設のような細い橋を通る。
(29)【14:36】
(30)三栖閘門(みすこうもん)【14:47】
閘門とは、運河・放水路などで、水量を調節して水面を一定にするためのせき。
三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として昭和4年に作られた。現在は使われていない。
(31)伏見港公園【14:55】
旧街道らしい町並みに戻る。【14:57】
(32)道標【15:14】
京都市伏見土木事務所の玄関脇にあった。
(33)伏見長州藩邸跡【15:14】
(34)京橋【15:16】
濠川(ほりかわ)に掛かる橋。
濠川は伏見城の外堀で、淀川に繋がっている。その川に沿って遊歩道が整備されていて、次項の像もそこにある。
(35)龍馬とお龍、愛の旅路像【15:18】
寺田屋事件で手に重傷を負った龍馬が、寺田屋向かいにあるこの場所から舟に乗り、お龍と一緒に霧島へ旅に出たとのこと。日本初めての新婚旅行と言われるもの。
ただ、観光名所的な銅像が、古都にはいささか似合わないようにも・・・
竜馬通り【15:21】
(36)寺田屋【15:22】
寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の捕り方が襲い、それをちょうど風呂に入っていた「お龍」が察知して、薄物一枚羽織っただけで階段を駆け上がり、龍馬に知らせる・・・。という有名なシーンの舞台。
京と大阪は淀川水運で結ばれていて、その京の玄関口が伏見。その伏見にはたくさんの宿があり、寺田屋もその一つで、薩摩藩の定宿だったとのこと。龍馬は薩摩藩士のふりをしてここに泊まっていたらしい。
<2022年3月1日追記>
龍馬は土佐藩を脱藩後、勝海舟が設立した神戸海軍操練所で志を持って全国から集まった若者たちといっしょに生活していた。その神戸海軍操練所が、幕府から危険分子の巣窟だと疑われて解散させられたとき、失望する龍馬たちを心配した海舟は、薩摩藩の家老・小松帯刀に龍馬たちの身を託した。彼らは薩摩に移り、海舟直伝の海軍技術を薩摩藩士に伝えている。
その後、龍馬は薩摩藩をスポンサーにして貿易を行う日本初の商社「亀山社中」を長崎に立ち上げている。それが薩長同盟の伏線にもなった。
「薩摩藩士として」寺田屋に宿泊していたという背景には、そうした龍馬と薩摩藩との関係があった。
寺田屋の隣には坂本竜馬の像があった。
「寺田屋事件」があったのは慶応二年(1866年)で、この二日前に薩長同盟が結ばれた。
歴史には色々な異説が出されるのだが、ここで襲われたのは、実は龍馬自身の作戦ではないかという奇抜な説もあるとのこと。
寺田屋で龍馬たちは逃げきったが、薩長同盟について書いた文書は奉行所に押収された。それが、「あえて」なのではないかと。
両藩の中には薩長同盟を良しとしない人々もいたので、そこで薩長同盟を広く知らしめて、既成事実化しようとした。という説なのだが・・・。
(37)電気鉄道事業発祥の地の石碑【15:26】
電車は東京ではなくこの京都に最初に引かれたということ。
明治28(1895)年に下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点としてこの地伏見町油掛通までの約6kmを走ったとのこと。
(38)会津藩駐屯地跡【15:32】
(39)道標【15:43】
小学校の敷地内にあった。
この後、近くの丹波橋駅に15:55に到着。本日は予定通りここまでとした。
歩行時間は、休憩(及びバスでの移動)を含めて8時間8分だった。
以上
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