旧東海道27_宮-万場(佐屋街道)
◆旧東海道_宮-万場
2019年4月2日(火)曇り時々小雨
宮宿の金山から四日市宿までを、東海道の脇往還(脇街道)である佐屋街道を通って3日間かけて歩いた。
1日目は金山駅-岩塚宿-万場宿-七宝病院前
2日目は七宝病院前-神守宿-津島神社-佐屋宿-桑名宿
3日目は桑名宿-四日市宿
休憩を含めた歩行時間は、合計で14時間50分だった。
以下、3回に分けて記録しておく。
今回はその1日目。
(1)金山駅前の交差点の道標【13:35】
前回の終了地点を13:35に出発。
(2)尾頭橋(おとうばし)【13:40】
佐屋街道は、1634年(寛永11年)に整備された当初は下流の亀屋河渡(現:瓶屋橋付近)を通っていたが、1666年(寛文6年)幕府の通中奉行が管轄することとなったとき、尾頭橋が架けられて、ルートが変わったという。
なお、「尾頭」という地名の由来には諸説があるとのこと。
例えばその一つは、当地が熱田台地の尾根筋と尾張平野の南部を結ぶ接点であり、長い坂道が鵜の首のようであったため、烏頭の里と呼ばれていたものが、「尾頭」に変化したという説。
「うとう」と呼ばれる土地は、中山道や関ケ原町など全国にあり、台地と平地がだらだらと続く坂を「うとう」と呼ぶ例が多いという。
(3)津島街道一里塚【14:09】
唯然寺境内にある。
ここに記された「津島街道」は「佐屋街道」の北側を並行して津島神社に向かう街道で、現在の名鉄津島線の近くを通っているので「佐屋街道」とは明らかに異なる。この一里塚石碑を作るときに両者を混同したとしか思えない。
<2023年1月31日 追記>
「津島街道」は、美濃路・新川橋西詰で別れて津島神社に至る約14キ㎞の道で、「津島上街道」と「津島下街道」に分かれている。「津島下街道」は途中で「佐屋街道」と合流するが、そのこともあり、「佐屋街道」のことを「津島下街道」と呼ぶ場合もあるそうだ。よって、ここにある道標が「津島街道」となっているのも、あながち単なる誤解と呼ぶことは出来ないようだ。
1930年代からワサビを生産していたそうだ。
(5)佐屋街道の掲示板【14:18】
(6)長良橋【14:22】
橋上に埋め込まれていたタイル
(7)八幡社【14:42】
道沿いの家【14:48】
ところどころ古いたたずまいの家も見られる。
(8)岩塚一里塚のタイル【15:00】
かろうじて字が読めるタイルだけで、実際の一里塚も碑もない。
きねこさ祭りのタイル【15:03】
きねこさ祭りは、尾張三大奇祭の一つに数えられているもの。
図柄になっているのは川祭りで、役者と呼ばれる男たちが、厳寒の中、庄内川の中程で竹を立て、一人がそれに上り、竹の折れた方角で吉凶を占うものだそうだ。
タイル自体が変色していて、うっかりしていると見落とす。
街並み【15:05】
(9)岩塚宿場跡の表示【15:08】
(10)古い道標【15:11】
判読不明
(11)七所社(しちしょしゃ)【15:13】
前述のきねこさ祭りで有名。熱田七社の神を祀ったから七所社となったという。その七社は、熱田社、八剱社、大幸田神社、日割御子神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社。
この後、万場大橋を通って庄内川を渡る。
(12)万場宿跡表札&常夜灯【15:24】
(13)光圓寺(こうえんじ)【15:35】
(14)国玉神社(くにたまじんじゃ)【15:35】
高札場跡がここにあったことが掲示板に書かれてある。
万場交差点【15:43】
(15)佐屋街道の道標【15:52】
(16)高札場跡【15:55】
(17)稲荷社【15:58】
(18)佐屋街道道標【15:58】
(19)七所社(しちしょしゃ)神社【16:07】
<2022年11月22日 追記>
(11)にも七所社があるのだが、お互いにどういう関係なのかよく分からない。ネットの佐屋街道情報では(19)のみしか出ていないのもあるが、「七所社」のHPを調べると(11)しか出てこない。ちなみに、今回参考にした「ホントに歩く東海道別冊佐屋街道」には両方がそのまま記載されているが、相互の関係の記載はない。
(20)七宝焼(しっぽうやき)原産地の標柱【16:43】
ちなみに、七宝町(しっぽうちょう)という町名は、愛知県海部郡遠島村において江戸末期より七宝焼きによる工芸品の製造が盛んであったことにちなんで、1906年(明治39年)に名付けられた。
(21)七宝病院前停留所【17:00】
本日の行程はここまで。
休憩を含めた歩行時間は、3時間25分だった。
以上
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