旧姫街道4_西気賀-追分

◆旧姫街道_西気賀-追分

2019年10月30日(水)晴れ

旧東海道の脇街道(脇往還)である姫街道(本坂通)を歩いた。

今日は四日目。西気賀から、気賀宿を通って追分(浜松方面との分岐点)まで歩いた。

(1) 姫街道表示のある交差点【11:15】

前回の終了地点を11:15に出発。

(2)薬師堂【11:56】


道標【11:57】

しばらく山中の道を進む。



地蔵堂【12:04】

(3) 地蔵堂&小引佐(こいなさ)【12:04】


小引佐からの眺め

ここからアスファルトの道に出る。

(4)清水みのる詩碑【12:06】

(5)巨人伝説の池「ダイダラボッチの足跡」【12:11】


鯉がたくさんいて、すぐに寄ってきた。人慣れしているようだ。

(6)道標【12:11】

ここから再び狭い道を進む。

(7)山田の一里塚跡【12:13】


(8)
堀川城戦死者の碑【12:15】

(9)山村修理の墓(修理殿の松)【12:15】


(10)道標【12:18】

途中で出会ったなつかしい車。初代の「三菱・ミニカ」だと思われるが、だとすると、50年以上も前のものという事になる。まだ現役らしい。

(11)道標【12:20】


(12)
二宮神社【12:23】

姫街道側は神社の背面になっていて、反対側が入口だった。次の写真は姫街道側の案内板。

二宮神社自体はさほど大きな建物ではない。


(13)
道祖神&石碑【12:29】

写真右側の自然石が道祖神とのことで、姫街道と金地院道との分岐点に建てられていたが、少し移動されたとか。左側のトタン屋根の被せられた碑には「南無妙法蓮華経」と書かれているそうだ。

(14)道標【12:30】

正面には「是金地院五丁」左には「左三ヶ日往還」と刻まれている。

(15)呉石学校跡【12:32】


(16)
カーブミラー【12:35】

御姫様マークが目立つ。なぜか他では見られなかった。

(17)諏訪神社【12:39】

民家庭先の桜草(?)とモミジ。

(18)道標【12:43】

(19)獄門畷(ごくもんなわて)【12:44】


(20)西桝形&常夜灯【12:46】


(21)本陣前公園【12:48】

何もない公園で、ちょっとがっかりさせられた。

(22)馬頭観音【12:49】


(23)正名寺【12:49】

(24)気賀宿本陣之址の石碑【12:49】

(25)気賀宿本陣中村家跡【12:52】


(26)気賀駅【12:55】


(27)
気賀関所【12:59】

「跡」が付いていないのは、ここが「細江町ふるさと創生事業」として復元された観光施設であって、実際の関所跡ではないから。無論、当時の雰囲気は十分に感じられるので、意味はあるが。

ちなみに、実際の施設は、(31)気賀関趾の場所に、ほぼそのままの形で明治時代まで残っていたそうだが、その後解体されてしまった。




(28)
細江神社【13:15】



(29)
藺草(いぐさ)神社【13:18】

細江神社の境内にある。

宝永4年(1707年)の大地震・大津波で浜名湖沿岸の田は塩水に浸かり、稲は壊滅的な被害を受けた。時の領主『近藤用随(こんどう もちゆき)』は天災による窮地を救うべく、塩に強い作物と聞きつけた琉球藺(りゅうきゅうい)を領内持ち込み、藺草(いぐさ)栽培を奨励。その後、琉球藺は周辺の各村に広がり、藺草を使った畳表(たたみおもて)の製織はこの地方を潤したとのこと。



(30)
吉野屋【13:18】

割烹料理店。ここの敷地は関所から地続きであり、当地を治めた旗本気賀近藤家の陣屋跡の最奥にあたる一角で、池のある庭は当時の遺構であるという。

現状の建造物群は昭和初期から中期にかけて、板前から旅館を創業した野島勘作が施主となったものであり、勘作の長男で日本画家の野島青茲(1915(大正4)年-1971(昭和46)年)の生家でもある。

中を見たかったが、見学のみの公開はしていないとのこと。

(31)史跡気賀関趾&説明板【13:23】


(32)
道標【13:24】

(33)落合橋【13:46】

(34)金襴の池【13:51】

(35)刑部城跡(おさかべじょうあと)【13:55】

刑部城は今川義元の家臣である新田美作入道の居城だったが、1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで義元が亡くなった後、1568年(永禄11年)天下取りに乗り出した徳川家康の軍勢に攻められて落城。その時の刑部城主の姫に関する伝説が前項(34)



(36)
新谷の宗安寺(そうあんじ)【14:00】

ここに書かれた「服部小平太」の石碑が(38)項にある。

(37)道標【14:01】

「この先行き止まり」が少し不安にさせたが、ちゃんと通れた。

街道の様子。山道の様相。

道標はないが、右側の山道を進む。

(38)服部小平太 最後の地【14:07】


(39)
配水タンク【14:09】

姫様道中という文字がうっすらと見える。

(40)老ヶ谷の一里塚と長坂【14:09】


(41)道標【14:09】

(42)千日堂【14:16】


(43)
老ヶ谷の秋葉山常夜灯【14:19】



(44)
道標【14:30】

(45)六地蔵【14:31】


(46)
郵便局【14:39】

旧街道風の建物となっている。

街角の柿の木【14:42】

(47)曲がり松【14:45】

ちょうど剪定作業中だった。



(48)
松並木【14:55】

これから(53)まで、断続的だが松並木が続く。旧東海道の中で、これだけ長い距離にわたって続くのに出会ったのは初めてだ。

(49)東大山一里塚【15:06】

西側の馬頭観音。この後ろに一里塚がある。

東側の一里塚

松並木の説明


(50)
権七店【15:15】

(51)三方原救貧院跡【15:18】


(52)道標【15:20】

姫街道車庫というバス停の横


(53)松並木の標識【15:46】


(54)三方原追分【15:48】

後日調べたら、左側の石碑は明治37年に建てられ「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」と書かれ、右側の石碑は慶応4年のもので、「右みやこだ 中かなさし 左きが 道」と書かれてあるそうだ。


本日はここまでとした。

休憩を含んだ歩行時間は4時間33分だった。

以上

 <全体のメインメニューは下記をクリック>


コメント

このブログの人気の投稿

旧児玉往還8_山名-高崎

プライベート ミニ リサイタル

旧児玉往還3_川越-高坂