富士塚巡り3_新宿富士塚
◆新宿富士塚巡り
2019年2月24日(日)晴れ
新宿及び早稲田界隈の五つの富士塚と史跡を回った。
西新宿駅(東京メトロ丸の内線)を10:40にスタートし、牛込柳町駅(都営地下鉄大江戸線)に着いたのが14:05。昼食タイムを含めて、3時間25分のウォーキングとなった。経路を下記に示す。
①成子富士(成子天神社)【10:50】
神社境内にあった小山を元にして、大正9年に作られた。高層ビルに囲まれた新宿らしい富士塚。高さ約12mとのことで、今まで見てきた江戸の富士塚の中ではかなり大きい方。
頂上の祠
登山道。手すりがあるので登れるが、これがないと少し怖い。
成子天神社。富士塚はこの左奥にあった。
成子天神社の力石
②新宿富士(花園神社・芸能浅間神社)【11:25】
新宿駅西口に近く、まわりの道路には多くの外国人(主に中国人?)がいた。神社境内ではちょうど骨董市が開かれていた。
花園神社の端に浅間神社があった。
芸能浅間神社は昭和3年に建てられ、昭和40年に現在地に移されたとのことで、富士塚も昭和の築造らしい。最初は8mほどの高さだったとのこと。富士塚はとても小さいが、頂上の祠や登山道(数段の階段)がある。
脇に藤圭子の歌碑。
全国の浅間神社の中でも、芸能に関わりのある例は珍しいが、江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったためらしい。入口には芸能人の名前がずらり。
③西大久保富士(稲荷鬼王神社)【11:40】
昭和5年になって築造され、その後、昭和43年の社殿再建の際に二分されて参道の左右に分かれている。
小さいながらも、○合目という表示もちゃんとある。
次の写真は裏参道入り口から見たもの。
④東大久保富士(西向天神社 にしむきてんじんしゃ)【11:50】
天保13年(1842)に自然の台地を利用して築造。その後、関東大震災後に改修再築している。
右手の一段上がったところに児童公園があるが、その手前に下の写真のように何やら小山が・・・。しかしこれは富士塚ではない。
上の写真の左奥に、フェンスで囲まれた富士塚(東大久保富士)があった。
頂上に祠は見えず、「日之尊」と書かれた石碑があり、登山道も整備されている。実際に登れないのが残念。これだけ見ると、そんなに大きくないが、台地の上に作られているので下からだと、次の写真のように見える。
神社境内には藤圭子の歌碑もあった。
このあと、明治通り(305号線)を早稲田方向に進み、⑤富塚古墳と⑥高田富士を巡った。この両者の関係を調べた結果が以下の通り。
1.江戸時代まではこの一帯(早稲田)は「戸塚村」の一部であった。
2.「戸塚」の地名の由来は、水稲荷神社(宝泉寺)の敷地内に「富塚」という塚(古墳)があったためで、その後「富」を「戸」にした。(この周辺に古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説もある。)
3.「富塚」は弥生時代に作られた前方後円墳。(円墳との説もあり。)
4.「高田富士」は、安永8年(1779)に富士信仰の行者である高田藤四郎により作られたもの。その際に、前方後円墳の富塚を改変して築造された。
5.「高田富士」は、江戸市中で最古、最大の富士塚。
6.本来あった場所は、昭和40年(1965)に早稲田大学校域拡張工事により買収され、それにより水稲荷神社が甘水園内に移転したので、その際に高田富士も現在の場所に移設された。
結局、富塚古墳を改変して高田富士が作られたということ。しかし、そうすると・・・何で、富塚古墳と高田富士が今は別々の場所にあるのか、よく分からない。
⑤富塚古墳【12:34】
マンションとテニス場の間の道を入っていくと水稲荷神社があった。
神社の左奥にあった富塚古墳
隣の甘泉園(かんせんえん)公園に行く。早桜が見事に満開だった。
公園の案内図には「高田富士」の記載は一切ないので、中に入ってしばらく探した。すると、一番奥の、公園に隣接する民家の敷地の中にひっそりと富士塚があった。
⑥高田富士【12:40】
ようやく見つけた高田富士が以下の写真。非常に分かりづらいが、次の拡大写真では、登山道があるのが少し分かると思う。
周囲は柵と建物に完全に囲まれていてまったく近寄れなかった。建物の陰から何とか撮った写真は以下のようなものだけ。ただ、高田富士という看板が立っていたのは何とか確認出来た。
別のアングルから。頂上部のみ見えているところ。
このように完全に外からは遮断された状態で、中に入れないどころか、一部を見ることすらままならず、非常に残念だった。年に一度、海の日とその前日にのみ登拝が許されているらしいので、その時に来てみるしかないようだ。
高田富士は江戸市中で最古、最大の富士塚で、歌川広重も描いた名所だったということで、かなり価値ある史跡だと思う。中に入れないまでも、外からもう少し見られるようにして欲しいと思う。
次の写真はネットにあった昔の高田富士。
⑦堀部安兵衛の碑【13:00】
高田富士のすぐ横にあった。
⑧山鹿素行墓地【13:28】
⑨漱石公園【13:33】
入口にあった道草庵
漱石の胸像
猫塚。漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の供養のために建てたもの。
漱石山房記念館のブックカフェ
⑩関孝和の墓【13:46】
一般墓地の中の一番奥にあった。
⑪試衛館跡【14:00】
ビルの合間にあったので、場所が分かりにくく、少し迷った。しかし、この表示柱だけしかない、というのはいささか寂しい。
新撰組というと日野など江戸郊外出身者の集まりだと思っていたので、当然に試衛館もその近くにあったと思い込んでいた。こんな街中にあったのは意外だった。
今回廻った5つの富士塚のうち3つが大正や昭和に築造されたものだった。
不勉強ながら、富士塚は江戸時代だけのものだと今まで思い込んでいたが、昭和になってからも作られていたということで、富士山信仰が長く根強く残っていたことを再認識させられた。
以上
コメント
コメントを投稿