横浜「発祥の地」散策3
◇横浜「発祥の地」散策3
2023年3月9日(木)晴れ
横浜市内の「発祥の地」を順番に回ってみた。その3。
(1) 日本洋裁業発祥顕彰碑【9:38】
ネットに碑文が出ていたので以下に示す。
「1863年(文久3年)英国人ミセス・ピアソンが横浜居留地97番に ドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである。その頃から 在留西洋夫人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として雇い、 これにより婦人洋服仕立職人が育った。(後略)」
なお、神戸では、1869年(明治2年)に居留地16番地に英国人カペルが最初の洋服店を開業したので、神戸の東遊園地に「近代洋服発祥の地」の顕彰碑があるとのこと。
(2)横浜天主堂跡【9:42】
(3)西洋理髪発祥の碑【9:46】
(4)日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地【9:53】
山下町公園の入口にあった。
ネットに碑文が出ていたので以下に示す。
「日本で最初の フットボール(ラグビー) 発祥地 横浜
1866年1月26日、日本で最初のフットボール(ラグビー)クラブである横浜フットボールクラブ(YFBC)が、ここからほど近い山下町127番地でイギリス人を中心とする横浜在住の西洋人たちによって設立されました。ラグビー発祥の地、イングランドのラグビー・ミュージアムは、
このクラブを日本だけでなくアジアで最初のラグビークラブであるとも認定しました。(以下略)」
(5) 横浜関帝廟(よこはまかんていびょう)【9:57】
横浜中華街に住む人々の心の拠り所として親しまれているもので、祀られている主神は三国志の英雄として有名な実在の武将関羽(關聖帝君)。
武人としてだけでなく、帳簿を発明するなど、理財にも精通していたため、中国では「財神」すなわち金儲けや商売繁昌の神として信仰されているそうだ。
(6)日本国新聞発祥の地【9:58】
碑文を次に示す。
「日本における新聞誕生の地
ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四(元治元)年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」を発刊した居館の跡である。
彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。読みやすく、判りやすい新聞を、創世記の日本の新聞界に植えつけた新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など多くの人びとに民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。
一九九四(平成六)年六月二十八日 「海外新聞」発刊130年記念日に」
(7)ブラントン像【10:10】
(8) 太陽の母子像(アイスクリーム発祥記念)【10:23】
この「太陽の母子像」は、昭和51年(1976年)11月、日本アイスクリーム協会がアイスクリーム発祥記念として馬車道に寄贈したものとのこと。
制作を依頼された本郷は、アイスクリームの原料ミルクから連想して、母乳で子どもを育む「母」のイメージで制作したとのこと。しかしながら、事前の情報がなければ、この像と「アイスクリームの発祥」とはまったくリンク出来ず、いささか困惑する。
(近年は裸婦像を街頭に展示することに対する嫌悪感の高まりもあるので、母子像とはいえ、この像を撮影することに躊躇した結果、正面ではなく背面からの撮影とした。)
碑文がまったく読めなかったので、ネットで探したのを次に記す。
「横浜沿革史に、『明治二年六月馬車道通常盤町五丁目ニ於イテ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス』と誌されています。日本のアイスクリームの誕生です。私達はこれを記念し、このゆかりの地にモニュメントを建て寄贈いたします。
昭和五十一年十一月三日
社団 日本アイスクリーム協会」
(9)ハマの街灯点火の地【10:25】
1890(明治23)年、横浜共同電灯株式会社が中区常盤町に火力発電所を建設。同年10月1日に横浜市内の約700の電灯と街灯が一斉に点灯された。これが神奈川県で初めて電力供給が行われたもので、それを記念してたてられたのがこの碑とのこと。
碑文を下記に示す。
「明治23年10月1日、初めて横浜市内700の電灯と街灯が一斉につきました。この街灯は山下公園の門灯でした。同公園に埋もれていたのを、電力の産みの親、横浜共同電灯株式会社跡の常盤町に復活させました。古きよき時代をしのんで頂けたら・・・・・・と存じます。 勝烈庵主 昭和40年6月」
今回はここまでとした。
横浜市内にある主要な「発祥の地」は、この三日間でとりあえず巡り終わったので、今回で一旦終了とする。無論、周囲にはまだあるようなので、時機を見て個別に回ってみたい。
以上
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