旧日光街道8_古河宿ー間々田宿
◆旧日光街道 古河宿-間々田宿
2023年11月16日(木)晴れ
古河宿と間々田宿間を歩いた。
「古河」はすでに奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていた。室町時代後期から戦国時代にかけて「古河公方」の本拠地であり、江戸時代には古河城の城下町、日光街道の宿場町・古河宿が盛えた。
古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
室町幕府を開いた足利尊氏は、鎌倉に自らの子である基氏を派遣して東日本を抑える要とした。その五代目となる足利成氏は、室町将軍家と抗争することになり、享徳四年(一四五五)、鎌倉を出て古河へその拠点を移した。それが古河公方。
(1)駅前交差点【7:34】
前回の終了地点。ここから街道歩きを再開。
(2)金刀比羅宮【7:36】
(3)日光街道古河宿道標【7:37】
「左日光道 右江戸道」と書かれ、常夜灯を兼ねている。
(4)古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑【7:42】
「古河提灯竿もみ祭り」は 毎年12月の第1土曜日に開催され, 市内の各グループが 20m近い竹竿の先に提灯をつけ,大勢で激しく揉み合いながら 相手の提灯の火を消しあうという祭り。関東の奇祭と呼ばれている。
(5)武蔵屋【7:42】
明治44年創業のうなぎ屋。国登録有形文化財(建造物)に指定されている。江戸時代、このあたりは遊郭だったそうだ。
街道風景
(6)灯篭型道標【7:49】
(7)栗橋道道標【7:51】
(8)塩滑(しおなめ)地蔵菩薩【8:06】
身体の悪い所と同じ場所に塩を塗ると、治ると言い伝えられている。
(9)野木神社鳥居【8:12】
野木神社の回りに人が住み始め、それが次第に大きくなっていって街道筋へ出たものが、野木宿の起こりだそうだ。
(10)松並木の説明板【8:14】
(11)木戸跡【8:21】
道の反対側には馬頭観音があった。(写真がボケしまった。)
(12)野木宿説明板【8:25】
ここは本陣跡で問屋も兼ねていたそうだ。
(13)一里塚跡【8:29】
街道風景
(14)大平山道標【8:37】
(15)観音堂&十九夜塔&馬頭観音【8:40】
(16)長屋門【8:58】
(17)石仏石塔群【9:17】
(18)馬頭観音【9:22】
(19)法音寺(ほうおんじ)【9:52】
真言宗豊山派に属する600年の歴史あるお寺で、明治時代に町村制が公布された際、野木村として最初の役所は法音寺境内に置かれたそうだ。
(20)正八幡宮【9:53】
友沼村の総鎮守
(21)馬頭観世音【10:01】
(22)佛光寺【10:26】
(23)八幡宮【10:27】
街道筋にあったりっぱな民家
(24)間々田駅入口交差点【10:33】
(25)間々田駅【10:38】
今回の歩行時間は、休憩も入れて3時間4分だった。
「間々田」という地名の由来について調べたら、ネットには三つの説が出ていた。
1.「ママ」は崖、急斜面のことで、そういうところに田を作って集落を作ったことに由来する。
2.「ま」は、丸い、マウンド状の形を指す。また、空間、一定の特性の地勢を持つ広がりを持つ場所を指す場合もある。両方合わせて、「まま」=まるい、球形の、マウンド状の領域、土地を示す。今回の間々田の西北側は、恩田川の河床より一段上がったところで、南東側は鬼怒川を中心とした河川群の河床より一段と上がった領域で、緩やかな起伏を持つ。よって間々田。
3.この宿場が日本橋と日光のちょうど中間にあるから間々田宿となった。(最初に間々田という地名があったから間々田宿、と考えるのが自然だと思うが。)
出会ったマンホール蓋は以下。
栃木県下都賀郡野木町
町の花「ヒマワリ」が描かれている。何種類かあるようだ。
栃木県下都賀郡野木町
町の花「ヒマワリ」を中心に、周囲に町の木「エンジュ」が描かれている。
以上
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