旧東海道5_横浜-戸塚
◆旧東海道_横浜-戸塚
2024年7月4日(木)&7月6日(土)
日本橋から箱根間は2012年から2013年にかけて歩いたのだが、その時にはまだ旧東海道を本格的に歩くつもりはなかったので、写真もあまり撮っていなかった。すでに十年以上経ったので、改めて、空いた時間を使って歩き直すことにした。
本日は横浜(神奈川宿)から戸塚間を歩いたが、猛暑日が続いていたので、二日間に分けて早朝に歩いた。
(1)田中家【6:42】
(9)芝生(しぼう)の追分【7:13】
このあたり一帯は、以前は芝生村と書いて「しぼう村」だったそうだが、「しぼう」は死亡に繋がると言うことで、明治中頃に浅間町に改められたそうだ。
(14)香象院【7:34】
これからしばらく史跡が続いているので、地図上では、まとめて(15)として表示する。
(21)樹源寺【8:28】
(27)道標【9:04】
(31)境木地蔵尊【9:15】
堂の所在地は権太坂頂上にあたり、武蔵国と相模国との国境にあたる。江戸時代は茶屋が多く大変賑わった。その茶屋では焼餅が名物で、地蔵尊より戸塚よりの坂は焼餅坂とよばれる。
(34)福寿観音【9:34】
(35)道標【9:34】【7:06】
ここまでで4日は一旦終了。6日に改めてここから再スタート。
(36)道標【7:08】
(38)道標・説明板【7:11】
ここから1号線の向かい側まで、道標類が多いので、地図上では(38)でまとめて表示する。
(43)道標【7:30】
(45)光照寺【7:35】
史跡とは無関係だが、斬新な外観なので思わず撮影。
後日調べたら、元印刷会社のオフィスを改装する形で、今年6月に建立した寺とのこと。
同寺の住職は、もともと一般企業で働いていた、いわゆる在家出身で、30代で葬儀関連の企業を立ち上げ、仏教の世界に触れたことがきっかけで浄土真宗の教えを学びはじめ、38歳で得度したそうだ。この寺を建立する前は、約20年間、自宅の一室に本堂を構え法要などを行っていたとのこと。
(46)道標【7:56】
(47)首洗井戸【8:00】
後醍醐天皇の第一皇子護良(もりなが)親王は、征夷大将軍として父の建武新政権を支えたが、南北朝動乱のさなか捕らえられ、建武二年(1335年)幽閉先の鎌倉二階堂(現在の鎌倉宮)で足利氏方の手によって暗殺された。その首をこの井戸で洗い清めたと伝えられているそうだ。
(48)史跡への小径【8:04】
前項史跡への案内標石。
(49)鎌倉ハムの旧倉庫(日本のハム製造発祥の地)【8:05】
日本におけるハム製造のルーツは、明治時代にイギリス人のウィリアム・カーティスが鎌倉郡川上村(現在の横浜市戸塚区)で外国人向けに製造したことにある。
村に産業をと考えた斉藤満平さんたちは、カーティスの妻加藤かねさんの協力で製法を学び、明治10年代中頃、日本人として初めてハムの製造を始めた。暮らしの洋風化と共にハムは飛ぶように売れ、当時戸塚は鎌倉郡に属していたので「鎌倉ハム」として全国的に知られるようになったとのこと。
この倉庫は、ハムの冷蔵に使われていたもので、横浜港にある赤レンガ倉庫と同じ頃、明治20年代の建造とのこと。
ちなみに、ここに記載の「安藤広重」は早く「歌川広重」に修正すべきでしょう。
(58)伊東医院【8:28】
伊東医院は江戸時代末期の1853年(嘉永6年)に創業。関東大震災後の1925年(大正14年)に現在の建物になった。外観は当時の趣のままで、2003年度「横浜市認定歴史的建造物」に認定されたそうだ。
(60)司命堂医院【8:38】
大正4年に開業。レトロな医院建築で、昭和初期の建築とも言われている。但し、別の情報では、戦後の復興期になってから建てられたという話もある。
本日は予定通りここまでとした。
休憩を含めた歩行時間は、7月2日が2時間52分、7月4日が1時間33分、合計4時間25分だった。
本日出会ったマンホールの蓋は下記のみ。
横浜市戸塚区
以上
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