旧浦賀道5_逸見-浦賀

 ◆旧浦賀道_逸見-浦賀

2020年9月29日(火)曇り

東浦賀道の最後の区間である、逸見(横須賀)と浦賀奉行所間を歩いた。


(1)逸見駅からの分岐点【8:48】

前回の終了地点である交差点を8:48に出発。

(2)浄土寺【8:50】

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺。鎌倉時代の武将 畠山重忠の建立。江戸初期に来日し徳川家康の外交顧問として活躍した英国人航海士ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の菩提寺。

なお、これまでの街道歩きで、

「三浦按針の墓」は ◆旧浦賀道_瀬ケ崎-逸見 (30)、 

「三浦按針屋敷跡」は ◆旧中山道_日本橋-戸田 (5)で、立ち寄っている。

道は一旦国道16号線にでるが、すぐに住宅街の中の細い道に戻る。そこを数分歩くと次の写真の階段があらわれる。

ここから汐入駅までは、こうした階段でのアップダウンのある山道を進む。車は通れないが、全線舗装してあった。

(3)分岐点の階段【8:58】 

(4)逸見子育地蔵尊【9:00】


街道風景【9:02】

道標【9:03】

以降、いくつかの道標が途中に設けられていた。

街道からみた風景【9:05】

横須賀港が見える。

民家の塀に設置された道標【9:06】

道脇に咲いていた彼岸花【9:08】

(5)海軍用地との標識【9:14】

街道風景【9:14】

(6)道標【9:15】

(7)万蔵寺入口道標【9:15】

一旦下に降りて16号線を少し歩き、汐入駅の裏手を通るが、すぐに汐入小学校の横にある階段を上り、再び山中の民家の中の細い道を進む。


(8)道標【9:26】

街道風景【9:26】

(9)道標【9:31】

街道風景

(10)道標&うぐいす坂説明板【9:33】


(11)中里神社参道標識【9:37】

(12)横須賀町道路元標【9:38】

(13)道標【9:46】


(14)聖徳寺【9:51】
南北朝時代の武将・楠正成(くすのき まさしげ)の四男・四郎正徳が文和2年(1353年)に創建したと伝えられている。

(15)地蔵尊【9:53】

(16)永嶋家赤門【9:55】




(17)どうみき坂道標【10:00】

(18)道標【10:04】

街道風景【10:08】

(19)公郷学校跡【10:08】

(20)浄蓮寺【10:08】

室町時代の応永年間(1394年~1427年)に創建された。幕末には寺子屋が開かれ、明治5年の学制で、前項に示す学舎になったとのこと。


(21)
春日神社【10:16】

創建は平安時代と伝えられており、古くは猿島に鎮座していた。

明治時代に入ると猿島は軍用地となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造さたため、明治十七年に現在地の社殿に遷座されたとのこと。

(22)道標【10:19】

(23)砂坂地蔵尊【10:23】


(24)
西浦賀道との分岐点【10:32】

(25)浦賀道と大津湊の説明板【10:34】


街道風景【10:38】


(26)
街道風景【10:40】

ちょと目立つ大きなシュロの木があった。

(27)208号線との合流地点【10:43】

(28)矢の津坂【10:49】

元々は大変な急坂で雨が降ると膝まで埋まる悪路。「馬子泣かせの道」といわれたとのこと。

(29)仏像群【11:00】

左端が多頭観音のようで「寛政七年」と読める。中央も同類のものか? 右端は明治6年、南無阿弥陀仏というのが分かるが、墓碑とも思えるが?

前面に飾られた花が遠くからも鮮やかだったが、造花だった。

(30)馬頭観世音像群【11:02】

七基すべてが馬頭観音だった。周辺の街道筋にあったものを、道路開発の際などに一か所に集めたものだろうか?


(31)
浦賀駅【11:11】

街道風景【11:14】

(32)屯営跡の碑【11:16】


歩道上に設置されていた咸臨丸のレリーフ

(33)大衆帰本塚の碑【11:17】

現在の地に移されたのは平成9年。

本来あった崖地の近くには古くから火葬場があり、コレラの流行や旅の途中で亡くなって荼毘に付された人々を弔うために、元治元年(18649月に建てられたもの。

碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれているそうだ。

なお、「大衆」は仏教では「だいしゅ」と読み、「多くの僧たち。衆徒。」のこと。


(34)
浦賀道道路元標【11:18】

街道風景

(35)浦賀造船所「浦賀ドック」【11:21】




一世紀以上にわたって約1000隻にのぼる艦船等を造り続けてきたが、平成15年(2003)に閉鎖された。

一部が「浦賀コミュニティ広場」となっているようで、当日は、なぜか数台のパトカーが中で走り回っていた。何をしていたのかは、後日調べたが不明。


(36)
浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)【11:27】

中には浦賀奉行所の模型がある。

入口右側には消毒液、左の中島三郎助はマスク姿。こうした光景が、早く歴史の一コマになってしまうことを願いたい。

<2021年12月18日追記>

土方歳三を描いた小説「燃えよ剣」を改めて読んでいたら、終盤、函館の五稜郭での話の中で中島三郎助が出てきて驚いた。

榎本武揚が降伏するのではないかとのうわさが広がり、それを確認するために五稜郭に駆け付けた時に土方歳三と会い、話をしていることになっている。

中島三郎助は浦賀奉行所の与力を勤めた後、長崎で軍艦操縦法を学び、その後榎本とともに函館に行き、 この時には五稜郭の支城ともいうべき千代ヶ岱砲台の守備隊長になっていた。そして榎本が降伏した後も千代ヶ岱砲台だけは降伏せず、彼は戦死している。とのこと。

新選組とのこうした接点があったということは、時代背景から考えれば当然かもしれないが、ちょっと興味深かった。




(37)
浦賀道の案内板【11:39】



(38)
西叶神社【11:41】

養和元年(1181年)文覚上人(もんがくしょうにん)創建。現在の社殿は天保13年(1842年)に再建されたもの。

(39)ええじゃないかの説明板【11:41】

(40)廻船問屋跡【11:43】

(41)浦賀の渡し【11:45】

(42)関東大震災の慰霊塔【11:45】


街道筋の古い民家


(43)
愛宕山公園【11:49】



公園に行くつもりだったが、入口の階段が、次の写真のように両端からの生い茂った雑草で踏面が見えない状態なので、今回はパスした。

(44)船番所跡【11:54】

道の両側に異なった案内板があった。

船番所跡から見える浦賀湾


(45)
浦賀港引き上げ記念の碑【11:56】

(46)為朝神社【12:00】

創建は文政期(1820年代)で、寛政12年(1800)浜町の漁民が海を漂流していた鎮西八郎為朝の木造を拾い、地蔵堂に安置したといわれているそうだ。

浦賀道の上大岡にも「源為朝の祠」があった。

◆旧浦賀道_保土ヶ谷-上大岡  この(17)


われわれからすると、頼朝や義経に比べて為朝の名前は耳にする機会が少ないのだが、江戸時代の人にとっては今よりずっとポピュラーな人物だったのかもしれない、と思って調べたら、次のような図がネットにあった。

調べたら、江戸時代、疱瘡などの疫病流行の際には、門口に「為朝の宿」「為朝ここにあり」などと書いた紙を貼ることが広く行われたそうだ。

為朝は身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われたので、その武威を恐れて疫病神が退散する、ということだそうだ。

したがって、外部からの船の入口であるこの地に為朝神社があるというのは、そういう疫病除けの意味があったと考えるのが妥当だと思う。

ちなみに、日本でコレラが最初に大流行したのは、文政5年(1822年)8月から10月下旬にかけてといわれているので、為朝神社の創建年代とぴったり一致する。

(47)虎踊りの説明板【12:01】

(48)浦賀奉行所跡【12:04】



<2020年10月31日追記>

10月30日(金)の読売新聞に、浦賀奉行所の絵図2枚が市内の民家から見つかったという記事が出ていたので、下記に示す。

幕末期に通詞(通訳)用の部屋が急遽準備されたことが分かるという。

以上で、保土ヶ谷宿から浦賀奉行所までを無事に歩き終えた。

休憩を含めた今日の歩行時間は、3時間16分だった。

今回の経路の前半は細い山道が続いていて、それ以前も山間部が多かったので、今のような舗装がされていなかった浦賀道というのは、初級の登山に近いちょっとやっかいな街道だったのだろうと感じた。

(37)浦賀道の案内板」には、「金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用された」とあり、それはよく理解できる。

船便の利用は、現在は島ショ部以外ではあまり多くはないが、江戸時代には街道自体が今回の浦賀道のように整備されていないこともあって、今よりもずっと身近な交通手段だったのだろうと思った。

次回は、浦賀-逗子-鎌倉-戸塚を通る、西浦賀道を歩く予定である。

途中で見つけたマンホールの蓋、一種のみだが、以下に示す。

ペリーと黒船をデザインしたもの。


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以上 



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