旧中山道7_神保原-高崎
◆旧中山道_神保原-高崎
2019年12月4日(水)晴れ
旧中山道の歩き旅7日目。
新町宿-倉賀野宿-高崎宿と歩いた。
休憩を含めた歩行時間は、合計4時間48分だった。
前回の終了地点、神保原駅交差点からスタート。
(1) 神保原駅交差点【10:26】
ちなみに、神保原(じんぼはら)村というのは、明治22年に、石神村、忍保(おしぼ)村、八町河原(はっちょうがわら)村が合併して出来た町で、それぞれ1文字を取って付けられたそうだ。
(2) 神保原村道路元標【10:26】
前回来たときは見逃してしまった。
(3)薬師堂&石仏群【10:35】
(4)庚申塔【10:35】
(5)金久保神社【10:42】
入口にある石碑では「金久保八幡神社」
(6)顕彰碑と金窪城跡案内板【10:44】
(7)三国道入口道標【10:47】
平成26年5月に「皇紀二千六百年記念碑」の脇に「三国道 入口」と刻まれたそうだ。
三国街道は、武蔵国(埼玉県)・上野国(群馬県)・越後国(新潟県)を結ぶ街道で、金久保から玉村・倉賀野・高崎を通って新潟へ向かう街道で、伊香保街道や佐渡奉行街道が藤の木の渡しあるいは八町河原の渡しで合流するため、上里では別名「伊香保街道」や「佐渡奉行街道」ともよばれていたとのこと。
ここには、もともと元禄3年(1690)の年号が刻まれた地蔵の道しるべがあって、これには「これよりいかほかいとう」とあった。
(8)陽雲寺入口標記【10:48】
(9)畑時能首塚【10:48】
(10)中山道解説板【10:50】
賀美(かみ)公民館前にあった。
(11)慰霊の碑【10:55】
(12)賀美(かみ)村道路元標【10:57】
賀美小学校の校庭内にあり、金属の柵があって非常に分かりづらい。
(13)石仏石塔群【11:00】
ちょうど周囲が道路工事中で近くまで寄れなかった。
(14)勝場の一里塚跡【11:01】
(15)復元見透燈籠(東側)【11:06】
神流川(かんながわ)に掛かる神流川橋の両側にある。
神流川は武蔵国と上野国(こうずけのくに)との国境だった。
(16)復元見透燈籠(西側)【11:10】
(17)高崎市との市境【11:12】
(18)道標【11:17】
(19)復元見通し灯籠【11:18】
(20)八坂神社&柳茶屋の芭蕉句碑【11:21】
(21) 田口文五郎信武墓所【11:25】
1826年(文政9)、新町に生まれた田口文五郎信武の墓所。
関考和が発展させた和算(日本独自に発達した数学)が、関流算法として江戸時代中期以降日本各地に広がり発展した。その権威の一人だったらしい。後日調べたが詳細不明。
(22)高札場跡【11:29】
(23)行在所跡【11:31】
(24)新町道路元標【11:31】
(25)旅籠高瀬屋跡【11:36】
(26)小林本陣跡【11:39】
(27)道標【11:41】
(28)日本スリーデーマーチ発祥の地の石碑【11:42】
“スリーデーマーチ”というのは3日間に渡って自分の体力に合せたコースを自分のペースで歩く“歩け歩け運動”の一種。日本全国各地で開催されており, スリーデーマーチの他に2日間の“ツーデーマーチ”のケースも多いそうだが、そんな国際大会があるということは全く知らなかった。
(29)弁財天【11:43】
周囲に芭蕉句碑、庚申塔、道祖神がある。
(30)道標【11:45】
(31)伊勢島神社【11:51】
(32)川端家【11:52】
江戸時代の豪農で、江戸時代から明治~昭和初期にかけて建てられた多数の建物は国登録有形文化財となっているそうだ。今でも生活の場として使われているとのこと。
(33)信迎庵(しんげいあん)【11:53】
奥の白い建物が信迎庵。後日ネットで調べたが詳細不明。
(34)道標【11:56】
(35)烏川の堤防(高崎伊勢原自転車道の一部)【12:00】
写真の正面やや右の方に、次項の祠と案内板が見える。
(36)新明宮元宮の社殿【12:02】
街道風景(烏川の堤防)【12:09】
(37)街道風景【12:21】
(38)道標【12:22】
(39)柳瀬橋【12:55】
(40)岩鼻観測所掲示板【13:00】
柳瀬橋対岸にあった。
(41)道標【13:04】
(42)北向子育観音【13:07】
(43)道標【13:08】
(44)道標【13:09】
(45)道標【13:14】
(46)道標【13:19】
(47)道標【13:25】
(48)石仏石塔群【13:31】
(49)日光例幣使街道(れいへいしかいどう)追分【13:33】
<閻魔堂>
<道標&常夜灯>
<案内板>
<閻魔堂脇の石仏群>
<道標>
(50)中山道道標&中山道案内板【13:33】
(51)大山邸【13:38】
たかさき都市景観大賞になった建物。昭和九年に建て替えられたものだが、大きさは前の家とほぼ同じだったそうだ。
当時の農家は一階が居宅で二階は養蚕部屋であったが、大山家は二階も居宅とし養蚕専用の建物があった。
(52)倉賀野古商家おもてなし館【13:41】
(53)太鼓橋跡【13:42】
(54)倉賀野町道路元標【13:43】
(55)中山道倉賀野宿碑&男女双体道祖神【13:45】
(56)勅使河原本陣跡【13:45】
工事中の塀の前
(57)道標【13:48】
(58)脇本陣跡【13:49】
(59)高札場跡・問屋場跡【13:51】
(60)道標【13:54】
(61)倉賀野神社入口【13:55】
(62)安楽寺【13:59】
(63)松並木【14:03】
復元されたもの。松はまだ背が低いので、ちょっと風格不足。
街道風の面影が復活するにはもう少し時間がかかりそうだ。
(64)浅間山古墳(せんげんやまこふん)【14:28】
4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される前方後円墳。
群馬県内では太田天神山古墳(太田市)に次ぐ第2位で、関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳。
ネットに上空から撮影した画像があったので示す。
(65)道標【14:36】
ここからしばらくは、現在の道標のみが続く。
(66)道標【14:47】
(67)道標【14:56】
(68)高崎アリーナ【15:04】
(69)街道風景【15:07】
(70)高崎あら町交差点【15:14】
今回はここまでで終了とした。
その後、JR高崎駅に向かったが、途中に趣のある大きな建物があったので後日調べたら、明治17年(1884)に開業した「豊田屋旅館」だった。
(71) 豊田屋旅館【15:16】
本館は昭和7年(1932)に建築されたものに増改装を加えて現在のかたちにリニューアルしたそうだ。
戦前は高崎第十五連隊の兵士に面会する家族の宿となり、伝令将校として司馬遼太郎も泊まったとのこと。
今回見かけたマンホール蓋は以下の2枚のみだった。
埼玉県上里町
上里町のマスコットキャラクター「こむぎっち」が描かれたもの。右上に町章。
「こむぎっち」は町特産品の種子小麦をモチーフにしたもの。
高崎市
高崎まつりの山車を描いたもの。
以上
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