旧京街道1_高麗橋-枚方
◆旧東海道_高麗橋-枚方
2019年7月9日(火)曇り
大阪の高麗橋から京都山科追分までの、いわゆる京街道を、三日間掛けて歩いた。
今日は1日目で、枚方(ひらかた)宿まで進んだ。
江戸幕府が整備した旧東海道は、京都三条大橋が終点ではなく、京都山科追分からさらに大阪まで延びていて、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の四つの宿場がある。
したがって、これらを含めて、東海道五十七次とも言われる。
ただ、京都から大阪に向かう場合、多くは淀川の川下りが利用されて、街道は大阪から京都に行く場合のほとんど一方向のみに使われたこともあり、残念ながらあまり知られていない。
ちなみに、京街道が京都の中心部を通っていないのは、参勤交代で通る大名を、京都の公家達と合わせないようにするためとのこと。
京阪北浜駅に着いたのが9:15。出発点の高麗橋に向かうが、地下駅から地上に出た時に、持参した地図上のどの場所に出たかで少し混乱して、ちょっと迷った。
(1)高麗橋【9:28】
(2)里程元標跡【9:30】
江戸時代、大坂における里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。その位置に建てられた元標跡の石碑。
(3)前島密の像【9:34】
北浜東郵便局の前にあった。
(4)八軒家船着場の跡【9:40】
同地は、船宿などが八軒並んでいたことからその名がついたと云われている。
京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えたとのこと。
なお、過書船(かしょぶね)とは、過書(関所の通行証)を持つ船のこと。
八軒家船着場を描いた浮世絵
(5)京橋川魚市場跡【9:49】
街道から見えた大阪城。地図では近かそうだったが、意外に小さくしか見えなかった。
(7)のだばし址【10:02】
寝屋川に平行して鯰江(なまずえ)川が流れていたが、それに架けられていた橋で、公儀橋(こうぎばし)(幕府が直接管理する橋)に指定されていたとのこと。
(8)JR線と交差する地点の高架橋【10:16】
写真の真ん中に見えるのが、今は商店街となっている旧街道。
(9)道標【10:27】
(10)榎並(えなみ)地蔵【10:28】
榎並地蔵の横に掲示してあった地図。
(11)道標【10:48】
比較的新しいもので、あちこちに建てられていた。
しばらくは「関目七曲り」といわれた複雑に曲がりくねった道だったが、こうした道標のおかげであまり迷わずに進めた。
(12)関目神社【11:02】
「関目」という地名は中世の榎並荘(近衛家の荘園)の時代からあり、この地に見張り所(目で見る関所)があったことから。
(13)明治天皇聖躅(せいちょく)碑・西井茶屋址【11:08】
慶応4年(1868)3月21日、江戸へ向かって官軍が進行する中、15歳の明治天皇が京御所を出発し、23日になって関目の西井茶屋で休憩。石碑はその折のもの。
(項(25)、項(26)も本項と関係あり。)
(14)道標【11:13】
(15)京街道の説明板【11:20】
残念ながら非常に読みづらい。
街並み。再び商店街になる。【11:22】
道路上の標識【11:24】
(16)木犀(もくせい)の陣屋跡【11:29】
(17)守居神社【12:11】
街角ののぼり【12:44】
(18)文禄堤(ぶんろくつつみ)道標【12:50】
(19)文禄堤説明板【12:50】
(20)高札場【12:50】
道標タイル【12:52】
(21)守口宿案内図【12:53】
北が下側になっているので、ちょっと混乱する。
(22)大塩平八郎ゆかりの書院跡【12:54】
守口宿の豪農である白井家の隠居所。(今はマックの駐車場)白井孝右衛門は大塩平八郎と師弟関係にあり、経済的にも平八郎を援助していた。ここで挙兵についての密議や打合せがおこなわれたとされている。
(23)守口宿本陣跡【12:55】
(24)道標群【12:56】
(25)難宗寺【12:57】
浄土真宗の寺で守口西御坊と呼ばれる。
それに対して次項の盛泉寺は守口東御坊と呼ばれる。
(26)盛泉寺(じょうせんじ)【12:58】
浄土真宗の寺で守口東御坊と呼ばれる。
1868年に、大阪遷都の含みを持った明治天皇の大阪行幸があり、内侍所(三種の神器の鏡を安置する処)として盛泉寺、行在所(天皇宿泊所)として難宗寺がその役割を果たしている。その後、天皇は大阪北御堂で40数日滞在してから京都へ戻っている。
同年に江戸城無血開城があり、都が東京に移り、大阪遷都の案はなくなった。
(27)守口一里塚【13:01】
(28)京街道の案内板【13:05】
(29)正迎寺(しょうこうじ)【13:21】
(30)道標【13:25】
(31)堤防入口【13:27】
ここから堤防の上の道を進む。
堤防道の様子【13:41】
大体の区間が車両通行止めなので、交通事故の心配はない。
しかし、とにかく何もない。今日は陽が出ていないからよかったが、真夏に陽が照りつけていたら、あっというまに熱中症かな?という道。
道標も周囲の目印になる建物もなく、アナログ的に紙地図片手に歩いていく身には、現在地点の把握が難しく、ちょっと不安なウォーキングだった。
(32)佐太樋跡【13:54】
生活・農業用水を淀川より汲み取る樋(とい)が設けられていたことの記念碑。昭和に建てられたもの。
(33)佐太天神宮【14:08】
国道1号線沿いにあった。
藤原道真が大宰府に流される際、しばらく舟をつないだ地に祠をたてたのが始まりとか。
無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を待っていたためとされており、この「沙汰」が転訛して地名が佐太になったと書かれてあった。
鳥居の上部が欠損している理由を後日調べたが、よく分からない。
<2022年1月10日追記>
改めて調べたら、この鳥居は2018年6月18日に発生した大阪北部地震のときに欠損したとのこと。この地震では、大阪府内で死者6名、2府5県で負傷者462名、住家の全壊21棟・半壊483棟の被害があったそうだ。
(34)茨田(まんだ)堤碑【15:10】
日本書紀に登場する、日本で最初の堤。
何が書かれているかよく分からないで後日調べたら概要は下記のようだ。
「日本書紀には仁徳天皇11年に淀川の水害を防ぐためにこの堤の築造記事がある。日本で初めての堤工事であり,難工事のため〈人身供犠〉を行ったとある。」
根こそぎ倒れていた樹木【15:24】
理由は不明だが、普通に考えると台風か?
ここから5分位進んでから堤防の道を下り、一般道を進む。
(35)親鸞聖人・蓮如上人御田地標柱【15:41】
御田地とはお上から預かった田畑のことだが、ここでは、説教をした場所のこと。
(36)光善寺【15:45】
(37)道標【16:26】
(38)枚方宿西見附【16:27】
旅人として枚方宿を訪れたシーボルトは、「枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私の祖国マインの谷を思い出させるところが多い」と想起した。と説明板に書かれてあった。
(39)枚方宿鍵屋資料館【16:30】
「鍵屋」は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川三十石船の「船待ち宿」としても繁盛したそうだ。
街並み【16:32】
(40)淀川舟運(しゅううん)・枚方浜(問屋浜)跡【16:33】
(41)浄念寺【16:35】
(42)枚方宿本陣跡【16:39】
(43)妙見宮常夜灯石灯籠【16:43】
(44)枚方宿明板【16:46】
(45)枚方宿の表示&説明板【16:47】
(46)枚方市駅前の交差点【16:48】
本日は、予定通りここまでとした。
歩行時間は、休憩を含めて7時間20分だった。
歩き始めてしばらくは、旧街道が商店街に変わっている場所が意外に多いように感じた。商人の街、大阪ならではのことのようだ。
中盤以降は、ほとんど何もない堤防の上の道が多くなり、通算で2時間近く歩いたことになる。ここが今回の経路では一番疲れを感じた。
従来、駅周辺は再開発が進んで古いものが壊されていることが多かったが、今回は、意外に、守口市や枚方市等の駅周辺には、旧街道らしい佇まいの建物も残されていて、街道歩きの雰囲気をそこそこ楽しむことができた。
以上
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