旧東海道38_草津-京都三条
◆旧東海道38_草津-京都三条
2019年6月13日(木)晴れ
土山宿から京都三条大橋までを3日間かけて歩いた。
今回は最終日の3日目で、草津宿から京都三条大橋まで歩いた。
(51)中ノ庄駅前交差点【7:37】
昨日の終了地点からスタート。
(52)膳所(ぜぜ)神社【7:42】
奈良時代の創祀と伝わっていて、社殿には豊臣秀吉や徳川家康が神器を奉納したという記録が残っているそうだ。
表門は旧膳所城の城門で重要文化財に指定されている。
街並み【7:43】
(53)膳所城(ぜぜじょう)北総門跡【8:02】
民家の玄関先。
(54)義仲寺(ぎちゅうじ)【8:07】
(55)平野神社【8:16】
(56)道標【8:28】
脇には京町通の説明があった。
(57)森野すだれ店【8:31】
いかにも老舗という感じの店構え。創業以来、琵琶湖産のヨシを使った「すだれ」づくりと和室室内の装飾を扱っているとか。
(58)大津事件碑【8:32】
(59)柴山商店【8:34】
享保元年(1716年)創業という老舗の傘・提灯店。街並みに合わせて保存改修されている。
(60)大津宿本陣跡・明治天皇聖跡碑【8:39】
<2022年11月8日追記>
「明治天皇聖跡碑」について。
街道筋には、この碑のように明治天皇が休憩されたり泊まられた場所の碑がよく見られたが、京都に近いここにまでこういう碑があるのが、ちょっと不思議だった。
しかし、10月26日に放送されたNHKの歴史探偵「東京遷都大作戦」を見ていたら、その謎が解けた。
それによると、江戸時代の天皇は京御所からめったに外には出られなかったそうだ。天皇は一般市民からは完全に遮断された存在であり、一部の限られた人しか天皇に会えないということが、天皇や皇族の権威を高める一つの手段だったようだ。
それに対して、欧米の皇帝や王族が一般市民と積極的に交流を行っているのを見て、新時代の天皇は同じような存在にしなければならない、と明治新政府は考え、明治天皇の積極的な市井への行幸を図ったという。
したがって、明治の人々にとっては、天皇が自分たちの目の前に現れたこと自体が非常に大きな驚きであり、天皇が休憩されたり泊まられただけの場所に、わざわざ「碑」まで作ったということになる。
つまり、天皇制を国家の中心に据えた明治新政府の、一つの政治的プロモーションの成果の一つがこの碑だと言えるのだろう。
車の往来が多い国道558号線を進む。
道沿いで見かけた銭湯【8:42】
(61)蝉丸神社下社【8:46】
(62)逢坂の道標【8:49】
このあたりで国道1号線と合流する。
JR東海道線と並行している国道1号線の歩道を歩く。
線路の反対側には古い民家が見られるが、これらが旧東海道沿いの民家のようだ。
【8:55】
(63)蝉丸神社上社【8:57】
蝉丸神社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁13年(822)とのこと。
その後、平安時代中期に、琵琶の名手で後撰集の歌人でもある蝉丸が逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀され、歌舞音曲の神として信仰されるようになった。とのこと。
(64)常夜灯【8:59】
(65)逢坂山関址【9:04】
休憩所とトイレがあった。
そこに掲げられた「逢坂の関」の掲示
清少納言の歌碑
百人一首第62番の「夜をこめて 鳥のそらねは はかるともよに逢坂の 関はゆるさじ」が書かれている。
逢坂の関から脇道に入る。街道の様子【9:10】
街角に掲げられた浮世絵【9:11】
(66)蝉丸神社分社【9:12】
蝉丸神社分社入口横の車石(くるまいし)
大津と京都を結ぶ東海道は、多くの物資を運ぶ道として利用され、牛車だけでも年間一万六千両の通行があったとのこと。
そのため、人や馬の通る人馬道とは別に、牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べていた。これを車石という。
(67)大津算盤(そろばん)の始祖・片岡庄兵衛の碑【9:20】
(68)道標【9:21】
(69)月心寺【9:21】
(70)国道1号線からの分岐地点【9:44】
(実はもっと先だと思い込んでいて一旦通り過ぎてしまい、慌てて戻ったので、時間を少しロスしてしまった。)
(71)追分道標【9:48】
京街道(伏見街道)との分岐点。
「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と書かれている石碑がある。
何だか新しそうなので後日調べたら、元の石碑は安土城考古博物館に移され、これは複製品とのこと。
(72)追分町の道標【9:49】
(73)閑栖(かんせい)寺前の「車石」の説明掲示板【9:50】
(74)国道1号線との合流部分の道案内【9:56】
手作りのようだが、分かりにくい場所なのでありがたい。
ついに京都市内に入る。【10:03】
(75)柳谷山 徳林庵(山科地蔵)【10:18】
(76)山科駅前交差点の道案内表示と道標【10:24】
(77)五条別れ道標【10:31】
五条橋、東西本願寺、大仏方広寺、今熊野観音、清水寺方面への道を示しており、「左ハ五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐまきよ水 道 右ハ三条通」と書かれてあるとのこと。
三条通り(府道113号)を進んでJRの高架を過ぎて少し行くと、旧東海道は脇道に入る。その入口は遊歩道になっていて、趣のある木造の門があった。
(78)遊歩道入口【10:38】
旧東海道が遊歩道になっているのは1ブロックだけで、すぐに遊歩道から逸れて普通の民家の中の狭い道になる。
(79)途中の民家に掲げられていた旧東海道の掲示【10:49】
その後、あまり人通りのない細い道を進む。
途中、少し不安になりかかったときに道標が出てきた。
(80)道標【10:57】
再び三条通に合流。その合流地点に次項の広場があった。
(81)牛車道広場【11:00】
後日、牛車の速度を調べてみたら、時速3Kmから5kmの間あたりらしいとのことで、人が普通に歩く程度らしい。
早くはないが、人が荷車を牽くのと同等だと思えば、特に問題にならなかったのでしょうね。
(82)粟田口(あわたぐち)刑場跡【11:07】
(83)蹴上浄水場【11:14】
三条通の街並み【11:28】
(84)坂本竜馬お龍結婚式場跡【11:29】
晩年のお龍の話によると、1864年に青蓮院の塔頭・金蔵寺の住職智息院の媒酌により坂本龍馬とお龍は内祝言をあげたとのこと。
(85)三条白川橋道標【11:29】
京都における現存最古の道標
「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と書かれているそうだ。
(86)明智光秀の塚【11:31】
(87)三条大橋【12:24】
(88)高札場【12:28】
弥次喜多像【12:30】
東海道五十三次としての最終地点にようやく到達!!
本日の歩行時間は、休憩も入れて4時間53分。3日間合計で17時間38分だった。
実は、江戸幕府が整備した東海道はここが終点ではなく、山科の追分から大阪まで延びている。
つまり、この先、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿と街道は続き、大阪から京方向が別名「京街道」、逆方向は「大阪街道」と呼ばれている。
よって、次回は「京街道」を歩く予定である。
3日間に見付けたマンホールの蓋を下記にまとめて示す。
甲賀市水口町
水口曳山祭の曳山の車輪と、町の花・サツキがデザインされている。
湖南市
中央は市章。上部は琵琶湖の豊かな水を表現、下部はその南に位置する緑の大地を表現。
湖南市(旧石部町)
中央下は旧町章、石部町の「石」を図案化したもの。
雨山文化運動公園内と東海道石部宿歴史民俗資料館、および、町の花サツキをデザイン。
栗東市
市の鳥:メジロ、市の花:キンセンカ、木:貝塚伊吹が描かれている。
草津市
草津市
大津市
調べたら規格品のようだ。
大津市
市の花「比叡山すみれ」・市の木「山桜」・市の鳥「ユリカモメ」などが盛り込まれている。
京都市
「御所車」がデザインしてある。
以上
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