旧東海道17_金谷-掛川

◆旧東海道_金谷-掛川

2018年10月31日(水)晴れ時々曇り

藤枝から見附(磐田)までを3日間かけて歩いたが、

今回はその2日目。金谷宿から日坂宿を通って掛川宿まで行った。

JR金谷駅を8時36分に出発。

(1)駅前の案内板。【8:36】

(2)旧東海道石畳入口【8:43】

(3)金谷坂石畳【8:45】 

坂道を登るとすぐに旧道の趣がある石畳が表れる。比較的傾斜が強い上り坂。但し、平成3年(1991年)に復元されたもの。


箱根などにも同様のものがあったが、これがけっこう歩きにくい。本来はこの丸石の上に全体に薄く土や砂を敷きつめていたのだが、その土などが長年の風雪で無くなってしまったのでは???とも思ったりしたのだが・・・

それとも、丸石の状態のままでは歩きにくい、と考えるのは、平らな舗装路に慣れきった現代人の傲慢さなのか?

(4)諏訪原城跡【9:00】

途中で立ち寄ったが、山中の気持ちのいい散策路。ただ、ところどころに標識があるから、ここが城跡なんだと思えるが、それらがなかったら、単なる普通の丘や林としか思えず、そこに実際に城が建っていたことを具体的に想像してみることは難しい。






(5)菊川坂石畳【9:18】

ここも平成13年(2001年)に復元されたものだそうだが、一部に江戸時代後期の石畳(平成12年に発掘)が残っているとのこと。

(6)菊川の里の道標【9:37】

(7)間の宿菊川の全体図【9:38】

建物の壁に描かれている。

(8)阿仏尼(あぶつに)の歌碑【9:53】

このあたりは、箱根峠・鈴鹿峠と並んで東海道三大難所と呼ばれた「小夜(さよ)の中山」の入口。(ちなみに、「小夜の中山」の代わりに薩埵峠(さったとうげ)を三大難所に含めるという説明もある。どちらにせよ公式に定められた呼称ではないようだ。)

鎌倉中期の歌人阿仏尼が記した紀行文『十六夜日記(いざよいにっき)』の一節「雲かかるさやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月」が刻まれている。

通り沿いの軒先にあった干し柿【9:58】

(9)接待茶屋跡【10:00】

峠を上りきったところで、鎌倉時代の永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶などを接待し、憩いの場となっていたといわれている。

(10)西行法師の歌碑【10:03】

「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」

西行69歳の作。文治3年(1186年)の奥州への旅の途中、生涯二度目となる中山峠越えを歌ったもの。

(11)小夜の中山公園【10:03】

(12)小夜中山一里塚【10:12】

(13)白山神社の道標【10:22】

(14)馬頭観音像【10:26】

日坂宿のマンホール


(15)日坂宿の案内と道標、日坂宿扇屋本陣跡【10:48】




(16)問屋場跡【10:52】

民家の敷地内。案内板には当時のものは何も現存しませんとあった。

(17)旅籠川坂屋【11:01】

一般庶民が宿泊する旅籠屋だが、当時禁じられていたヒノキ材が用いられていること、床の間付きの上段の間があるなど、『脇本陣』の肩書はないものの、川坂屋は、身分の高い武士なども宿泊していた格の高い旅籠屋だったらしい。

横に「和助」の表示があるが、こうした掲示が多くの古い民家に出されていて、旧東海道の趣がある街並みだった。

(18)高札所跡【11:02】

(19)日坂宿宿場口の道標【11:06】

(20)事任八幡宮(ことのまま はちまんぐう)【11:10】

東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、昔から多くの人が旅の安全や願い事成就を祈り、崇敬を集めた。

平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場しているそうだ。


(21)塩井川原の道標【12:03】

(22)伊達方一里塚【12:08】


(23)馬頭観音【12:42】

馬頭観音の前にある「成滝の道標」


(24)葛川(くずかわ)一里塚【12:59】

(25)掛川の七曲りの掲示【13:05】

案内図もあったが、道がちょっと分かりにくくて少し迷った。ちなみに最初の曲がり角にあるはずの案内図に記されている「酒店」はなかった。



(26)掛川宿東番所跡の道標【13:11】

七曲りの中にあった。

(27)掛川城大手門【13:47】

1995年に復元されたもの。

(28)掛川城天守閣【13:51】

戦国時代には山内一豊が城主として10年間在城した城で、平成6年(1994年)に復元されたもの。

(29)掛川城近くの銀行【13:59】

銀行らしくない建物で、なかなか粋。

(30)平将門十九首塚【14:23】

住宅地の奥に公園の一角としてあった。

関東一円を制覇した平将門は朝廷への反逆者とみなされ、天慶3年(940年)、藤原秀郷によって討伐される。その平将門と18人の武将の首級が埋葬されていると言われている。

昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のものと思われる大きな1基だけが残されたので、それを取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されたそうだ。

マンホール蓋【14:24】

掛川城と市の花「キキョウ」が描かれている。

(31)大池橋の道標【15:02】


西掛川駅【15:09】

本日はここで終了。

以上

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