旧東海道20_浜松-新居

◆旧東海道_浜松-新居

2018年11月14日(水)曇り

見付宿(磐田)から吉田宿(豊橋)まで3日間かけて歩いたが、今回はその2日目。浜松宿-舞阪宿-新居宿と進んだ。

浜松の成子(なるこ)交差点を7:55にスタート。

(1)成子交差点【7:55】

(2)鎧橋(よろいばし)【8:13】


(3)八丁縄手(はっちょうなわて)【8:15】

繩手とは直線に延びた長い道。そこに松並木があったらしいが、今は周辺に松は一本も見当たらない。


(4)一里塚跡【8:18】

(5)二つ御堂(みどう)、高札場跡、馬頭観音【8:20】

三つまとめて立っている。しかもその横には秀衡の松も。

秀衡(ひでひら)の松

秀衡とは藤原秀衡だと思われるが、なんで平泉を中心に奥州(東北)を支配した秀衡に関係した物がここにあるのか?掲示板にそのあたりは何も書かれてないので不明。


<2022年12月4日追記>

平泉の城主であり鎮守府将軍でもあった藤原秀衡は、仁安元年(1166年)に目を患い、盲目に近い状態になってしまった。そこで信夫郷(しのぶごう)の薬師如来に、断食をして心から祈願すると、七日目の満願の日になんと正常に見えるようになった。喜んだ秀衡は、その薬師さまのためにお堂を建てようと計画し、辰巳の方角へと旅をすること四か月、八月八日にこの忍の郷の地にある遍照院まで辿りついた。その夜、薬師如来より「この地に留とどまりたい」と言うお告げを受け、本堂、庫裡、鐘楼、仁王門、大塔、山門と建てて、寄進した、とのこと。

松並木【8:22】

国道257号線を進むと、片側だけだが少しずつ松が見えてきて、ちょっとだけ旧東海道の雰囲気も感じられる。

(6)高札場跡【8:29】

(7)領地境界の標柱【8:44】

(8)堀江領境界石【8:47】

(9)高札場跡と秋葉燈籠跡【8:50】

完全にアパート敷地内。フェンス越しでしか見られない。


(10)国道257号線からの分岐地点【9:02】

昔風に言えば追分。右側が旧東海道。

(11)立場跡【9:08】


(12)篠原一里塚跡【9:11】


(13)坪井村高札場跡【9:36】

(14)春日神社【9:55】

左右の鹿の像がめずらしい。


(15)松並木【9:58】

昭和13年に再整備されたものとのこと。700mの区間に330本の松が両側に綺麗に植えられていて、旧東海道代の雰囲気が感じられる。江戸時代には1420本あったというから、かなり壮観だったに違いない。

こうした松並木が他の多くの地域にも整備されていたことを思うと、当時の東海道が、今の両側に民家の立ち並んだ舗装道路とはまったく違った、想像以上に風情のあるりっぱな街道だったことがしのばれる。


向かって右側に次の写真のような干支のモニュメントがあり、左側にはその次の写真のように浮世絵をかたどったものが設置されていた。


(16)東海道案内板【10:04】

(17)舞阪橋跡【10:05】

マンホールの蓋

松がデザインされている。松は舞阪町の木だそうだ。

(18)浪小僧の碑【10:08】

松並木の終点に休憩所と共にあった。

(19)見付石垣【10:21】

見付とは見張所のことでここに番人が立っていた。

(20)常夜灯と一里塚跡【10:22】

常夜灯の正面には無粋なプラスチックシェードの電灯が付けられていて、いささか情緒には掛ける。一里塚跡は右側に小さく見える石碑。


舞阪宿の案内図

舞阪宿一里塚跡

舞阪宿の街並み【10:25】

(21)舞阪宿本陣跡【10:30】

(22)舞阪宿脇本陣【10:31】

現存している書院棟は、天保九年(1838)に建てられたものとのこと。


(23)本雁木(ほんがんげ)跡【10:32】

雁木(がんげ)とは階段状になっている船着き場。渡船場は三か所あったが、ここは旅人が一番利用したところ。今は舞阪魚市場になっている。


舞阪魚市場。中央に見えるのが浜名バイパスの浜名大橋

(24)北雁木跡【10:36】


このあと国道301号線をひたすら進み、JR新居町駅に着く。

新居町(あらいまち)駅【11:48】

ちなみに、駅名と地名の読みが異なり、地名の読みは「あらいちょう」とのこと。


(25)遠州新居手筒花火の像【11:48】

駅前の小広場にあった。これを見るまでまったく知らなかったのだが、遠州新居の手筒花火は有名な祭りとのこと。

江戸貞享年間(1684~1688)には既に諏訪神社祭礼で行われていて、笛、太鼓、ほら貝が鳴り響くなか、一度に数十本の手筒花火が乱立する様は、他の地域では見ることのできない新居独特のものと書いてあった。

2枚目の写真が湖西市のHPに掲載されていた写真。かなりすごそうで、一度直接見たいものだと思った。


(26)浜名橋【11:54】

橋の欄干にこの場所を描いた浮世絵が何枚も掲示されていた。


不思議なのは、すべての浮世絵に「新居」ではなく「荒井」と記されていること。

以前通った「由比」が浮世絵では「由井」と書かれていたが、同様に江戸時代は音が同じであれば使う漢字にはそんなにこだわらなかったのだろうか?

(27)新居関所跡【11:58】

当時の建物が現存する全国唯一の関所跡。綺麗に整備されていた。観光客が数人しかいないのが、なんだか意外だった。

新居関所の大御門

復元された高札場

(28)紀伊国屋【12:05】

紀伊国屋は徳川御三家紀州藩の御用宿。

(29)飯田武兵衛(いいだぶへい)本陣跡【12:06】


(30)新居宿道標【12:07】

(31)疋田八郎兵衛(ひきだはちろうべえ)本陣跡【12:09】


(32)寄馬(よせうま)跡【12:10】


マンホールの蓋

新居関所が描かれている。中央のマークは旧新居町の町章で関の文字がイメージされているそうだ。

(33)一里塚跡【12:16】


(34)棒鼻跡【12:18】

棒鼻とは駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので棒鼻と呼ぶようになった。

(35)橋本の道標【12:20】

橋本は、浜名橋による地名で浜名川と東海道が交差した港湾都市。平安時代から鎌倉時代にかけては橋本宿として繁栄したが、明応地震・津波の被害(1498年)により壊滅。浜名湖水運の拠点は橋本から、今切・新居地区に移った、ということだそうだ。

(36)風炉の井【12:23】

次の交差点の反対側にあった。



(37)橋本西の交差点【12:25】

旧街道は国道417号線と少しだけいっしょになるが、再びそこから離れるのがこの交差点。右が旧街道。

本日はここで終了とした。

この後国道を通ってJR新居駅に戻ったが、途中の川(浜名川)にボートが多数係留されていた。青いポールが林立しているのがちょっとおもしろかった。

以上

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