旧中山道35_御嵩宿ー伏見宿
◆旧中山道_御嵩宿-伏見宿
2023年9月14日(木)曇り時々晴れ
旧中山道の街道歩き。今日は御嵩宿から伏見宿の間を歩いた。
(1)御嵩駅【8:18】
(2)神明神社【8:20】
(3)道標【8:22】
街道風景
(3)中山道案内図【8:28】
御嵩町中公民館前にあった。
(4)常夜灯【8:29】
(5)常夜灯【8:32】
(6)道標【8:33】
(7)鬼の首塚【8:36】
(8)御嶽神社【8:43】
(9)道標【8:45】
(10)道標【8:46】
街道風景
(11)道標【8:54】
(12)八幡神社社標【8:56】
(13)顔戸城址(ごうどじょうし)【9:01】
(14)道標【9:03】
(15)比衣(ひえ)一里塚跡【9:08】
分岐点
街道風景
(17)道標【9:23】
(18)道標【9:29】
(19)道標【9:33】
(20)本陣跡【9:35】
伏見公民館の前。
(21)一本松公園(休憩所)【9:39】
休憩所内部に掲げてあった「トピックス」の一つ。
(22)旧旅籠三吉屋【9:47】
ネット情報では「(前項の)駱駝が訪れた事に因み、現在は「お休み処らくだ」として利用されています。」とのことだったが、特にそうした様子はなかった。
後日確認したら、2012年のストリートビューには、上の写真の左側の「局便郵見伏」と掲げられた郵便局の表示が「お休み処らくだ」となっていたが、2014年には既に郵便局の表示に変わっていた。
(23)常夜灯【9:49】
(24)名号碑【9:52】
(25)子規句碑&案内図【9:53】
「可児才蔵生誕の地」というマンガチックな看板が目に付いたので、後日調べた結果が以下。
可児吉長(かに よしなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。槍の名手として知られた。通称の才蔵(さいぞう)でよく知られている。身長が推定182センチの大男で、長い槍を使いこなせたとのこと。最初は柴田勝家、明智光秀、前田利家らに仕えた。その後、関ヶ原の戦いでは福島正則軍の先鋒隊長として参加。正則が関ヶ原の功績により安芸国広島藩に加増移封されると、それに従って広島に赴いた。
才蔵は武将というより大名家の一兵士的な身分だったが、それにも関わらず名前が知られるようになったのは、関ヶ原に於ける活躍を家康から大いに賞賛されたことがあったようだ。
<2023年10月28日追記>
以下のネットニュースがあった。
「可児才蔵が使ったという「十文字槍(やり)」の複製を岐阜県御嵩町が制作し、27日に披露した。才蔵が生まれ、7歳まで育ったと伝わる町内の願興寺とともに、「才蔵の里」として観光に生かし、町民にも郷土意識を持ってもらうねらいだ。」
大正四年に建立とのこと。
(27)弘法堂?【10:01】
(28)上恵土(かみえど)神社【10:02】
街道風景
(29)恵土の一里塚跡【10:39】
(30)中仙道踏切【10:54】
(31)石塔【10:58】
生垣に囲まれていて分かりづらい。開墾記念碑と開運北辰妙見大菩薩碑。
(32)秋葉神社【11:14】
東住吉自治会館前に背を向けて祀られている。
(33)今渡(いまわたり)神社社標と鳥居【11:22】
(34)今渡地区センター南交差点【11:25】
予定通り今日はここまでとして、この後「日本ライン今渡」駅に向かった。
本日の歩行時間は休憩も含めて3時間7分だった。
本日出会ったマンホールの蓋を以下に示す。
可児郡御嵩町
中央の町章から、周囲に町の木・アカマツが4本伸びているデザイン。
多治見市(宿泊場所)
美濃焼の徳利と杯と市の花・キキョウに、「土岐川」の流れのデザイン。
以上
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