旧日光街道2_千住宿ー草加宿
◆旧日光街道 千住宿-草加宿
2024年1月16日(火)晴れ
旧日光街道(日光道中)の北千住から草加の区間を歩いた。
(1)北千住駅【10:06】
(2)駅前交差点【10:09】
前回の終了地点で、ここから旧日光街道となる。
(3)千住宿本陣跡【10:10】
路面には次のようなタイルが見られた。
街道風景
上写真のアーケード右上に掲げられた「北斎富嶽三十六景 隅田川関屋」の画像をネットで見つけたので次に示す。
描かれている「関屋の里」は、「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯を指しているとのことで、現在の東武線牛田駅周辺のようだ。
(4)千住本町公園【10:15】
公園入口にある「千住高札場由来解説板」
さすがに記載事項はほとんど読めない。ネットで探した結果は次の通り。
<千住宿高札場由来>
私たちの街 千住が宿場となって栄えたのは 慶長二年(一五九七)人馬引継駅として以来のことだといわれています
江戸時代の足立は 千住宿を中心に始まった といっても過言ではありません
特に寛永二年(一六ニ五)東照宮建立によって日光道中初宿として また江戸四宿の一つとして繁栄し 約四百年を経て 今日に至っております
このような高札場は 明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して 人々に周知してもらうため 千住宿の入口・出口の所に設置されていました
これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます
昭和六十三年十一月吉日
街道筋の商店のシャッターには、次のような浮世絵風の絵が多く描かれていた。
(5)千住絵馬屋吉田家【10:18】
(6)横山家住宅【10:19】
(7)道標【10:20】
(8)道標【10:22】
(9)名倉医院【10:22】
(10)千住新橋【10:27】
(11)真福寺【10:39】
(12)善立寺【10:45】
(13)道標【10:45】
(14)石不動尊【10:50】
耳不動とも呼ばれ耳の病にご利益あり。荒川放水路の堤にあったがここに移転されたとのこと。
(15)道標【10:57】
(16)将軍家御成橋御成道松並木跡【11:30】
街角の多くの電柱には「旧日光街道」という表示板が付けられていた。
(17)鷲神社(わしじんじゃ)社標【11:34】
「わしだいみょうじん・おとりさま」と呼ばれているそうだ。
(18)成田道標&小社【11:41】
(19)増田橋道標【11:42】
街道風景
(20)道標【11:59】
(21)分岐点【12:02】
(22)分岐点【12:02】
(23)県境(市境)標識【12:17】
(24)富士浅間神社【12:37】
富士塚が見られたが、説明板などはない。
(25)善福寺【12:39】
(26)火あぶり地蔵尊【12:46】
隣にあった石碑は馬頭観世音のようだ。
街道風景。草加せんべい店。同様の店舗が街道筋に何軒か見られた。
ここまでの街道筋には古い家屋はほとんど見られない。次はようやく出会った古い蔵。
(27)草加宿碑【12:55】
かつて千住と越谷の間は沼地が多く、道は大きく東に迂回していた。慶長11年(1606)幕府の命を受けた大川図書(おおかわずしょ)が中心となり、茅野を開き沼を埋め立て、街道をまっすぐにする新道を開いた。この時、沼地の造成に沢山の草が用いられた事から「草加」と呼ばれるようになったそうだ。
<2024年1月22日追記>
湿地帯の埋め立てに「沢山の草を用いる」ということが不思議に思えたので、少し知らべてみた。すると、江戸時代の埋め立ては、木などを編んで作られた大きな籠状のものに土等を詰め、それを何個も使って埋め立てを行ったとのこと。その籠状のものは普通は細い木や竹で作られたのだが、もともと湿地地帯なのでそうした木々がなく、代わりに棒状の太めの茎をもつ「草」を使ったのかもしれない。というふうに考えると、埋め立てに「草を加えた」という表現も何となく理解できると思うのだが、どうだろうか?
(28)地蔵堂【12:58】
この地蔵堂は、かつてここにあった豪商、大和屋・浅古半兵衛の邸宅の名残で、子育て地蔵として祀った屋敷神だったとのこと。
明治時代の写真を草加市のホームページで見つけたので次に示す。
(29)浅古正三家(あさこ しょうぞう)家。【12:59】
明治末期の建築とのこと。
(30)草加神社社標【13:01】
(31)駅前交差点【13:04】
予定通り本日はここまでとした。歩行時間は休憩も含めて2時間55分だった。
(32)草加駅【13:06】
以上
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