旧東海道32_関-坂下
◆旧東海道_関-坂下
2019年5月16日(木)晴れ
四日市宿から土山宿までを3日間かけて歩いた。
2日目は庄野宿から坂下宿まで歩いたので、2回に分けて記載する。
今回はその2。
(46)関宿入口道標【10:40】
国道一号線との分岐点。右が旧東海道。
入口の案内板【10:41】
関の小萬のもたれ松【10:41】
(47)東の追分【11:12】
関宿は2017年に単独で訪れている。
そのときはここから西の追分の区間のみを歩いた。https://yukkuriarukou.blogspot.com/2023/02/blog-post.html
鳥居があるのは、ここが伊勢別街道との分岐点(追分)だからで、伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するならわしになっているそうだ。
関宿の街並み【11:15】
ここまでの規模で、街並みを江戸時代の旧街道風に揃えているところは他にはない。まさに街道散策が絵になる宿場だと思う。
(48)御馳走場跡【11:17】
「馳走」は「走りまわる」の意味。この「御馳走場」とは大名行列を宿役人が出迎えたり見送ったりする場所のこと。関宿には四カ所の「御馳走場」があったということだ。
美容院【11:18】
町の雰囲気を壊さないような看板がなんとも粋。「御髪結処(おんかみゆいどころ)美容院マチ」とある。
(49)道標【11:19】
(50)問屋場跡【11:21】
(51)川北本陣跡【11:22】
街道に馴染んでいる電話ボックス【11:22】
(52)伊藤本陣跡【11:23】
さすがに観光客が多くいた。
(53)高札場【11:24】
(54)関地蔵院【11:26】
天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられている。
(55)旧田中家住宅【11:27】
「旧田中家住宅」の主は、質屋から金融、山林業などへと手を広げ、明治時代には周辺に広大な土地を所有し、水田から上がる米や造林業で財を成していったとのこと。
また、田中家6代当主の田中亀(き)甫(ほ)は「華道の大家」だったとされ、地元の人を弟子に持つ師範であり、文化人としても活躍していたそうだ。
(56)西の追分【11:36】
(57)国道一号線との合流点の道標【11:37】
(58)転び石【11:42】
何度かたずけても街道に転がり出たという伝説の石。
国道一号線からの分岐点【11:45】
(59)西願寺【11:50】
西願寺前の常夜灯【11:51】
暫く脇道を歩いた後、再び一号線を進む。【11:56】
(60)筆捨山の説明板【12:02】
脇道を少し入ったところにあった。
(61)一里塚阯【12:09】
(62)再び一号線から離れる。その分岐点表示板【12:11】
車の出入りがほとんどなくなった山道を進む【12:13】
山道はやがて旧街道らしくなる【12:29】
(63)鈴鹿馬子唄会館【12:30】
(64)鈴鹿峠自然の家【12:30】
廃校となった小学校の校舎を活用し、野外体験学習など宿泊研修が出来る施設にとして改築したもの。
中に入りたいと思ったが、事前に利用予約の申請しないと見学もNGのようだった。
馬子唄会館と自然の家の間の道【12:30】
木の細い柱が建てられていて、それぞれに宿場の名前が記されている。
(65)坂下宿の説明板【12:41】
(66)松屋本陣跡【12:42】
(67)伊勢坂下バス停【12:42】
予定通り、本日はここまでとし、その後、13:03発のバスで関駅まで戻った。ちなみに、この時間を乗り過ごすと、次は16:05までバスはない。
関駅前の「道の駅」で休憩した後、まだホテルに行くには早いので、関宿を再び西の追分方向から入って散策した。
百五銀行【13:56】
関神社【14:00】
街道筋で見つけた鬼瓦。
その後しばらく散策を続けた。
以上
<全体のメインメニューは下記をクリック>
<https://sites.google.com/view/slowly-walker>
コメント
コメントを投稿