旧東海道31_庄野-亀山
◆旧東海道_庄野-亀山
2019年5月15日(水)曇り
四日市宿から土山宿までを3日間かけて歩いた。
今回はその2日目。庄野宿から坂下宿まで歩いた。少し長いので2回に分けて記載する。
その1回目は、庄野宿から亀山宿。
(1) 庄野町集会所前バス停【7:25】
前日の終了地点を出発。
(2)川俣神社【7:27】
(3)東海道道標【7:28】
(4)国道との交差点の道案内図【7:30】
(5)案内図に示された地下道【7:33】
(6)従是東神戸領(これよりひがしかんべりょう)の碑【7:40】
途中にはセメントで繋げたような補修の跡が。
道の反対側の同じ碑【7:40】
(7)女人堤防の碑【7:41】
(8)中富田一里塚跡【7:47】
<2022年11月18日 追記>
上の一里塚の説明板に「近くに『御馳走場』と書かれた家があり・・・大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ」とある。しかし、この「馳走」とは「走りまわる」「奔走する」の意味であり、街道筋における『御馳走場』とは、宿役人が、大名行列を出迎えたり見送ったりする場所のこと。つまり「御馳走+場」ではなくて、「御+馳走場」。
(9)川俣神社【7:47】
一里塚のすぐ隣。
(10)川俣神社【7:56】
なぜ街道筋に三つも川俣神社があるのか不思議に思い、後日調べたが、二つの川の合流点ということと関係があるらしいということだけで詳細は不明。ちなみに鈴鹿川沿岸には六社も同名神社があるそうだ。
(11)和泉橋【8:00】
旧東海道より少し下流側に掛かるが、安楽川を渡る近傍の橋はここしかないので渡る。
(12)井田川駅【8:17】
街道は鈴鹿市から亀山市に入る。駅の住所は亀山市井田川町。
駅前の案内図【8:17】
日本武尊の像【8:18】
駅前にあった。ヤマトタケルが、東国の蝦夷を平定しての帰途、このあたりで病死したと伝えられているとのこと。
(13)旧井田川小学校跡【8:26】
なつかしい銅像が傍にあった。
(14)道標【8:32】
(15)西信寺【8:33】
(16)法悦題目塔【8:40】
(17)和田道標【8:44】
(18)道標【8:45】
(19)石上寺(せきじょうじ)【8:50】
(20)和田一里塚跡【8:54】
かなり大きくて立派だが、残念ながら、平成に入ってから摸式復元されたもの。
(21)カメヤマ本社工場【9:03】
亀山ローソクで有名。スパイラルキャンドルはここが元祖とのこと。
(22)露心庵跡【9:05】
ここから先が亀山宿。
(23)巡見道(じゅんけんどう)表示板【9:09】
(24)江戸口門跡【9:17】
街道はしばらく商店街となっている。【9:18】
残念ながら多くの店のシャッターが閉まっていたが、時間が早いせいなのか、それとも・・・
(25)樋口本陣跡【9:22】
(26)交差点での案内板【9:23】
歩道上のタイル【9:23】
(27)亀山城東三乃丸跡【9:24】
屋号札の掲示【9:26】
以降、多くの家屋に次のような表示が出ていた。
(28)遍照寺(へんじょうじ)【9:27】
古い街並み【9:28】
(29)亀山宿道標【9:30】
(30)西町問屋場跡【9:32】
(31)飯沼慾斎(いいぬま よくさい)生家跡【9:34】
飯沼慾斎は江戸時代の医家で本草学者。「リンネ(=分類学の父と呼ばれる博物学者)」の植物分類法を最初に採用した「草木図説」を出版。その価値は時代を経ても色あせることなく、海外でも高く評価されていたとのこと。(こういう世界的な人が江戸時代にいたことを初めて知った。江戸時代の文化が世界レベルだったことを改めて認識した。)
(32)旧舘家住宅(枡屋)【9:34】
亀山宿の町家の代表的な例。幕末から明治にかけて呉服屋を営んでいた大店とのこと。
(33)亀山城西之丸外堀【9:36】
(34)亀山城青木門跡【9:40】
(35)亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡【9:41】
(36)京口門跡【9:47】
現在の京口橋【9:47】
(37)森住宅【10:50】
(38)野村一里塚【9:58】
樹齢四百年のムクの木とか。
一里塚の碑文は何が書いてあるか判読が難しい。
(39)亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡【10:05】
横面には次のように書いてあった。
「打田家は江戸初め頃近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。打田権四郎昌克(1641~1758)は、元禄十五年(1702)亀山藩に関する記録集「九々五集」を編さんした。」
ちなみに、ここに書かれた(1641~1758)だと117年間になるが、個人の生存期間とはとても思えないのだが???
延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社。布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社・小詞を合祀し、現在の社名となったそうだ。
(42)古い民家のままの郵便局【11:10】
(43)一号線と交差する場所の道標【10:15】
(44)大岡寺畷【10:18】
「畷/縄手」(なわて)とは、細いまっすぐな道のことで、この大岡寺畷は約2キロにわたって鈴鹿川に沿って築かれた堤の上を通る。当時、東海道の畷道の中で随一の長さであったらしい。
畷から見えた鈴鹿川【10:22】
(45)高速道路との立体交差点【10:25】
壁面に浮世絵が描かれている。
これ以降は「その2」(32 関ー土山)に記載。
以上
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