旧東海道28_万場-桑名(佐屋街道)
◆旧東海道_万場-桑名
2019年4月3日(水)晴れ
東海道の脇往還(脇街道)である佐屋街道を通って四日市まで3日間かけて歩いた。
今回はその2日目。
(21)七宝病院前停留所【8:55】
前日の終了地点を8:55に出発。
すぐに津島市に入る【8:58】
(22)神守(かもり)一里塚【9:06】
佐屋街道の中で塚が現存しているのはここだけとのこと。ちなみに植えられているのはムクノキ。
一里塚の隣にある街道の案内図
(23)山車(だし)庫【9:12】
光って見にくいが、中央に「中町」の表示。
街並み【9:12】
(24)神守宿場跡【9:13】
(25)穂歳神社(ほうとうじんじゃ)【9:16】
「尾張津島秋まつり」のうち神守の山車は文化年間(1804~1818年)に始まったと伝えられ、憶感神社(前項参照)および穂歳神社を中心に、古くは大豊作の年や、特別な奉祝行事の年に限り、旧暦8月16日に奉納されていた。
(26)日光橋【9:33】
(27)日光橋説明板&常夜灯【9:35】
しばらく県道68号線を進んだ後、佐屋街道は途中で左折するのだが、今回はそこをそのまま直進して、津島神社に向かう。
(28)十王堂【10:31】
歩道の車止めに描かれた津島神社【10:34】
(29)千体仏【10:40】
途中の塀に描かれた尾張津島天王祭りの掲示【10:43】
(30)参宮道道標【10:44】
(31)天王川公園【10:50】
ちょうど桜が満開だった。
(32)大銀杏【10:55】
文字がかすれて読めない部分があるので、ネットで探した画像を次に示す。
(33)津島神社【10:58】
江戸時代までは「津島牛頭天王社」と呼ばれ、全国約三千社の天王信仰の総本社。
天王信仰とは、牛頭(ごず)天王および素戔嗚(すさのお)尊に対する信仰。
牛頭天王は本来疫病よけの神で、古来、難病治癒の祈願に訪れる参拝客が全国から参詣し、津島の天王祭も夏の疫病流行期に行われる。
ちなみに「お伊勢参らば津島へ参れ、津島参らば片参り」と唄われたそうだ。
(34)堀田家住宅【11:05】
(35)氷室作太夫家住居【11:12】
その後、県道68号線を東に戻り、埋田追分から佐屋街道に再び合流する。
(36)埋田追分【11:14】
佐屋街道と津島神社への参道との分岐点。
常夜灯の後ろに鳥居の根石が残っているが、かつてはここに津島神社一の鳥居があり、江戸時代には茶店などもあって通る人々で賑わっていたそうだ。しかし、その鳥居は昭和34年の伊勢湾台風で倒れたとのこと。
「右 つしま天王みち」・「左 さやみち」の道標。裏には「あつた なごや道」と書かれている。
ここから先は街道が屈曲していて、しかもその曲がり角に標識などはまったくないので、地図を頼りに慎重に進んだ。
(37)佐屋海道道標【12:13】
<2022年11月21日追記>
佐屋海道と書かれているが、「海道」とは、海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域を示す。
(38)浄法寺【12:27】
(39)筆塚【12:28】
昔風の民家【12:34】
(40)さや舟場道道標【12:36】
(41)きこくの生垣【12:37】
(42)佐屋代官所阯【12:37】
整備されていたが、入口が閉められていて近づけなかった。
(43)佐屋三里の渡し阯【12:40】
(44)善定坊(佐屋宿本陣の門)【13:23】
佐屋宿から桑名宿までは、佐屋川と木曽川を舟で行く「三里の渡し」だったので、佐屋街道はここまでとなる。
よって、これ以降は、巡見街道を進むことにする。
巡見街道とは特定の道の名称ではなく、江戸幕府が民情調査のために派遣していた巡見使が通った道の事。
(45)六角堂【13:26】
(46)ふたつやの渡の碑【14:46】
江戸時代後半になると三里の渡しが通っていた佐屋川の川底が浅くなり、舟の通行に支障をきたすようになって、だんだん舟着場が下流に移動した。
明治には、前ヶ須(弥富)に上陸して、佐屋宿まで陸路を行くようになり、明治3(1871)年に新東海道(熱田~福田~前ヶ須~ふたつやの渡し~桑名)が開設された。
(47)尾張大橋【14:49】
木曽川を渡る橋。
(48)道標【15:00】
(49)石取祭車庫【15:22】
(50)道標【15:23】
(51)伊勢大橋【15:34】
長良川と揖斐川を渡る。
長良川と揖斐川の間の中州。【15:41】
信号機があり、右折して中州に下りられる。
桑名側からの写真
木曽川、長良川、揖斐川はすべて川幅がかなり広く、水量も多くて、続けて徒歩で渡るのは、正直少し怖かった。特に風が強かったこともあり、決して落ちないと思ってはいても、渡る時間がずいぶん長く感じられた。ちなみに、他に徒歩で渡っていた人は一人もいなかった。
長良川河口堰【16:00】
桑名側から撮った写真。以前からかなり異様な風景だと思っていたが、不勉強の為改めて調べてみると、いささか、いわく付きのものらしい。
<2022年11月22日 追記>
この河口堰は長良川に初めて造られた堰であり、当初は工業用水確保のために計画された。しかし、計画が30年以上紆余曲折するうちに、想定していたほどには工業用水の需要がなくなってしまったため、洪水防止に名目を変更して建設が進められた。
その建設に当たり、利水や治水の観点から建設を望む声がある一方、長良川の生態系や漁業などへの悪影響の懸念から激しい反対運動が起き、建設の是非をめぐる論争が発生した。
1965年(昭和40年)木曽川水系工事実施基本計画が施行
1968年(昭和43年)建設基本計画が閣議決定
1978年(昭和53年)岐阜県知事が着工に同意
1988年(昭和63年)堰本体工事着工
1995年(平成7年) 本格運用開始
(52)住吉神社【16:04】
(53)七里の渡し場跡【16:10】
ここは2015年に一度来ている。
<https://yukkuriarukou.blogspot.com/2023/01/blog-post_23.html>
前回は九華公園(桑名城跡)の中も散策したので、今回はそこには入らなかった。
(55)大塚本陣跡(船津屋)【16:20】
(54)脇本陣跡(山月)
本陣、脇本陣の説明板
ともに現在は料理旅館となっていることが記されている。
(56)歴史を語る公園【16:16】
(57)道標【16:25】
今回はここまでで終了とした。
風が強かったが歩きやすい天候だった。休憩を含めた歩行時間は合計7時間30分。
以上
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