旧東海道26_鳴海-宮

◆旧東海道_鳴海-宮

2019年2月5日(火)晴れ

前回の続きとして、鳴海宿から宮宿まで歩いた。

宮宿から桑名宿までは、佐屋街道を通る予定なので、「七里の渡し跡」に行った後で分岐点まで戻り、そこから佐屋街道に入って金山駅まで歩いた。

(1) 前後駅前交差点【8:30】

朝8:30に前回の終了地点である前後駅前交差点を出発。

(2)戦人塚【8:40】

残念ながら工事中で中に入れなかった。

「戦人塚」は桶狭間の戦いの戦死者約2500人を供養した塚。現在でも曹源寺の住職が供養を続けているとか。

 次の写真はその塚の隣にあった集会所。さすがに「戦人」という言葉には抵抗があるのか、「仙人」塚となっていた。

ここに入る道の1号線の交差点も次の写真のように「仙人塚団地」の表示。

旧東海道に戻って街道を歩く。

趣のある町屋もちらほら見られる。【8:48】

(3) 桶狭間古戦場跡【9:00】

中京競馬場前駅のガード下をくぐると、整備された公園になっていた。

言うまでもなく、2万5千人とも4万人とも言われる大軍勢を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、3千人ほどの寡兵だった織田信長が劇的な勝利をした戦い。







<2021年3月23日 追記>

この背景について、面白い異説があったので、以下に記す。

1.「捨て石」作戦(小島道裕氏)

この戦いは、そもそもが信長が今川領に侵出し、今川方の城(鳴海城と大高城)の間に「付け城」(鷲津砦、丸根砦)を作って攻撃を仕掛けたのが発端だった。よって、今川義元が反撃に出てくるのは、信長の想定内。

信長は、味方の鷲津・丸根両砦が、今川方から攻撃されるのを確認するまで動こうとしなかったのだが、実は最初からその両砦は見捨てるつもりだった。つまり、その両砦は最初から「捨て石」としての布石だった。

すなわち、まず今川軍に両砦の攻撃を行なわせ、相手の出方を確かめ、相手が「引き上げモード」に入った所を狙って襲いかかる、ということを最初から計算して仕組んだ奇策だった。

2.特攻作戦(竹村公太郎氏)

元々尾張は狭い湿地地帯で、大軍が駆け巡り会戦を繰り広げるような土地ではなかった。そこで育った信長は、内部抗争的な戦いは行ってきたが、いわゆる戦国時代の本格的な戦い方の経験も知識もほとんどなかった。

今川の大軍が進軍してきたとき、信長はなかなか明確な戦術が描けなかった。当時の常識からすれば、これだけの戦力差があれば投降か逃走以外の策はなかった。最終的に悩んで出した打開策が、前線を大きく迂回して、今川本陣に直接奇襲を仕掛け、今川義元ただ一人を狙うという方法だった。

その時に、総大将である自分自身を危険に晒してまでして、直接敵陣に飛び込んでいくという、この当時ではまったくありえなかった危険な戦術を取ったところが、信長のすごさなのだろうと思う。これがいっしょに大軍の中に飛び込んでいった家来達にも、覚悟を決めさせたのだろうと思う。

信長は、戦勝後、義元の居場所を通報した梁田政綱を第一の功労者としており、今川義元の居場所情報こそがキーだったのだということが言われている。

3.正面攻撃説(渡邊大門氏)

今川義元が率いていた兵力は実際には1万2000程度ではないかと思われる。しかもこれは全体の兵力であり、義元の本陣自体を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だと思われ、対して信長の軍勢は2000だったといわれている。

信長は、敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていることを示し、わが軍は新手なので敵が大軍でも恐れることはないと檄げきを飛ばして、悪天候を活用して、正面から攻め込んだという。

今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたという経過の出典は、小瀬甫庵の書いた『甫庵信長記』だが、これは基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料、ということで、通常の正面攻撃と考えるべきだ。というもの。

ただ、そうすると、前掲の「桶狭弔古碑」の説明掲示板に書かれた解釈の二(戦いは「奇兵をもって」と奇襲戦を明記している。)という記載はどう考えたらいいだろうか。

いずれにせよ、正面攻撃だとしても信長が2000の兵力で5000から6000の敵を破ったということではあるので、やはり、ここに何らかの信長マジックがあったとのでは、とも思いたくもなるのだが。

以上、なかなか面白い。

昔のやくざ映画で、最後に、高倉健が単身で(わずかな仲間達だけで)ラスボスだけを狙って大勢の敵陣の中に殴り込みをかけるという、そんな雰囲気のある2.の方が、日本人のメンタリティには合うのかなあとも思うのだが。

なお、信長はこれ以降の戦いでは、二度とこうした賭博的な戦術は取っていない。

基本的に戦いは兵力が多いほうが勝つ。この原則を踏まえた上で、領地内での商業を振興し、兵を増やし、金を儲けて優秀な武器を購入する、ということを確実に実施していったことが、これ以降の信長の進軍を支えていったのだと思う。

(4)高徳院【9:06】

桶狭間古戦場跡とは道を挟んだところにあり、今川義元の本陣跡で、その墓もある。


更に進むと、間の宿・有松。

街並みが整備保存されており、江戸時代の情緒が楽しめる国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうだ。


(5)道標【9:20】

(6)有松山車会館【9:21】

(7)街並みに合わせた建物の信用金庫【9:22】

(8)服部家住宅【9:23】

服部家の土蔵【9:23】

(9)井桁屋(いげたや)【9:23】

寛政2年(1790)創業の有松絞り問屋。卯建(うだつ)・塗籠造り(ぬりごめづくり)・漆喰虫籠窓(しっくいむしこまど)など、江戸時代の防火建築となっているそうだ。

(10)中舛竹田荘【9:27】


(11)醫院(医院)と薬房(薬局)【9:28】

街道風景

(12)梅屋鶴寿の歌碑【9:31】

梅屋鶴寿は江戸時代末期の狂歌師。

(13)祇園寺【9:31】

門が閉まっていて中から子供の声がしていた。中に幼稚園?を併設しているようだ。

(14)有松一里塚【9:32】

平成24年に復元されたもの。


道路に埋め込まれたタイル。【9:38】

完全に色褪せてしまっているが。

(15)平部町常夜灯【9:49】



(16)道脇にあった東海道のレリーフ【9:54】

(17)瑞泉寺【9:56】

後日調べたら、屋根の両側に乗っているのは鯱(しゃちほこ)ではなく、「摩伽羅」という伝説上の生き物で、ガンジス川に生息するワニとのこと。


(18)高札場【10:02】

街道から少し離れた場所にあった。


(19)鳴海神社【10:04】

高札場の先にあり、境内に「鳴海城址之碑」がある。

鳴海城は今川義元の家臣である岡部元信が城主を務めていた城で、今川氏の重要拠点になっていた。当時は海に面した城で、満潮時には城のすぐ下まで潮に浸かったと伝えられている。

「桶狭間の戦い」においては、待機中であった鳴海城兵は無傷であったが、義元が敗れたため、交渉の結果信長に城を明け渡している。天正末期には廃城。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。


(20)誓願寺【10:06】

中に芭蕉の供養塔がある。


(21)丹下町常夜灯【10:19】

(22)鉾の木貝塚【10:24】

看板がなければただの雑草が茂った空き地。想像していたよりも狭かった。


(23)千句塚公園【10:27】

中に千鳥塚がある。

千鳥塚【10:29】

千句塚公園の一番高い高台にあった。



国道1号線との交差点にあったマック【10:40】

昔の旅人も途中で休憩しながら歩いたに違いないと思いながらコーヒーブレイク。

ぼんやりカラフルな室内を見まわしているうちに、こうした派手な色遣いも、案外、浮世絵や歌舞伎などとそんなに変わらないように思えてきて、多分、江戸時代の人がここに来たとしても、そんなには驚かないだろうなあ、と、思ったり・・。


(24)笠寺一里塚【11:03】

名古屋市内で現存する一里塚はこの「笠寺一里塚」だけとのこと。植えられているのはエノキ。かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノキが植えられていたそうだ。


再びのタイル【11:07】

(25)笠覆寺(りゅうふくじ)【11:10】


(26)笠寺観音【11:12】

前項の笠覆寺の西門にあたる。笠覆寺が正式名称だが、一般には笠寺観音(かさでらかんのん)の通称で知られているので、この門の表示は笠寺観音堂となっている。

道標【11:31】

(27)道標【11:33】


(28)清水稲荷神社【11:35】

街灯の旧東海道の表示【11:39】

呼続(よびつぎ)は地名(名古屋市南区呼続)。後日調べたら、よぼよぼ(よびよび)の傾斜地と平地との継ぎ目を表す地形地名で、かつて「呼続浜」と呼ばれた海岸だったそうだ。

(29)道標【11:42】

(30)熊野三社【11:46】


(31)道標【12:03】

ここに記されている「山崎城址・安泰寺」に行こうと思ったが道が分からず、線路の反対側まで回って周囲を探した。

(32)結局、街道沿いにある「石原葬儀店」(「片平なぎさ」を思い浮かべる)の隣の細い脇道に入ればいいことが分かった。 写真の右側の路地。


そうすると、次の写真のような、線路の上を通る細い跨線橋に出るので、それを渡る。

安泰寺の門【11:59】

前掲の跨線橋を渡った突き当りにある。

(33)安泰寺【11:57】

山崎城は織田信長の命で築かれた。桶狭間の戦で信長が勝利した後、佐久間信盛が山崎城に入り、信盛の重臣永田弥左衛門らに守らせた。山崎城が廃城後、跡地に桜(南区)にあった宝珠庵を移して安泰寺としたそうだ。

次の写真に写る門が現在の正門で、線路の反対側の道路から車が通れる舗装路が続いている。

その後、国道をしばらく進むと、東海道は途中で脇道に入る。

(34)名鉄線の高架下【12:27】

歩道上の四角いポールに東海道の表示。


(35)宮地区案内板【12:28】

(36)裁断橋址【12:29】

大正時代までは精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていたそうだ。昭和元年(1926)に川が埋め立てられて橋は撤去されたとのこと。橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあるそうだ。

(37)都々逸(どどいつ)発祥の地の石碑【12:30】

七・七・七・五の音数律に従う都々逸(どどいつ)は、熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が起源とする説もあり、「都々逸発祥の碑」が建立されたもの。神戸節は、宮宿の花街の一つ神戸で生まれた歌。

(38)徳川家康幼時幽居地【12:33】

街道から少し外れるが、駐車場わきにあった。



(39)佐屋街道との分岐点の道標と案内板【12:40】


(40)宝勝院【12:45】

(41)七里の渡し場跡【12:48】



ここで、一旦、佐屋街道との分岐点まで戻り、以降は佐屋街道を進む。

(42)円福寺【12:56】

最澄が熱田神宮参詣の際に毘沙門天像を安置して始まった天台宗の寺。



(43)熱田神宮 西門【13:01】

熱田神宮は2016年に一度来ているので、今回は中には入らなかった。

https://yukkuriarukou.blogspot.com/2023/01/blog-post_21.html

織田信長が桶狭間の戦いの前にここで戦勝祈願したことでも有名。

信長自身は宗教を信じていなかったが、将兵たちの中には信仰する者も多いので、その士気高揚のために参拝したそうだ。

(44)白鳥御陵の石柱【13:27】

(45)源頼朝出生地【13:28】


(46)熱田神宮第二新門址【13:33】

(47)熱田神宮公園【13:36】

(48)断夫山古墳【13:37】

熱田神宮公園の中にある。


中は立ち入り禁止で外から眺めるだけなので、概要もさっぱり掴めない。

隣にミニチュアがあった。

途中の公園で見つけた遊具【13:45】

ここまでJALを前面に出したものは見たことがなかったので、思わず撮影してしまった。

(49)佐屋街道道標【13:57】


金山駅前の金山新橋南交差点【14:00】

本日の予定はここまで。

休憩を含めての歩行時間は合計5時間半だった。

鳴海宿も宮宿も、今までの宿場跡で普通に見られた、本陣跡、脇本時跡、問屋場跡、さらには松並木など、定番の史跡がまったくなかったことが、ちょっとした驚きだった。宮宿は東海道で一番賑わっていた場所だったのに残念だ。

都市化と戦災が理由だろうし、やむを得ないが、いささか寂しい。その中で、有松に昔の街並みが保存されていたのは、うれしかった。


以下に、今回見つけたマンホールの蓋を示す。

名古屋市

上下水道局キャラクター“アメンボ”のデザイン。アメンボマークは1992年、名古屋市の下水道供用開80周年を記念した 一般公募で決まったそうだ。

東邦ガスのもの。中央に社章のある幾何学模様のデザイン。

丸に八は名古屋市章。周りは金の鯱(しゃちほこ)2匹

名古屋城がなく、鯱のみのもの


豊明市

「桶狭間古戦場を」イメージし、市の下水道元年(昭和63年)に制作されたマンホール蓋。


以上

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